大分県中津市、黒田孝高(黒田官兵衛/如水)が築城し、細川忠興が完成させたという名城が、中津城です。薬研堀から眺めると見事な黒壁の天守がそびえ立っていますが、実はこの天守、歴史的考証のない復興天守。現在では「奥平家歴史資料館」という藩政時代の歴史を伝えるミュージアムになっているのです。
奥平家の治世には天守はなかった!?

そもそも中津城に近世的な天守はあったのでしょうか?
中津城の絵図には天守が描かれたものがないことから、享保2年(1717年)、奥平昌成(おくだいらまさしげ)が丹後宮津藩より10万石で入封して以降、明治維新まで9代にわたって続いた奥平家の治世時代には天守がなかったことが推測できます。
それでも黒田孝高の手紙に、天守に銭を積んで蓄えたという記述があることから、豊臣政権下の天正16年(1588年)、黒田孝高が築城を開始した際には、天守があったことがわかっています。
慶長5年(1600年)、黒田家は東軍に与して活躍したため恩賞で筑前52万石に加増され、中津城には豊臣温故の大名ながら東軍に与した細川忠興(ほそかわただおき)が入封、城を大修築しています。
元和5年(1619年)に細川忠興のしたためた書状いは、明石藩主・小笠原忠真(おがさわらただざね=忠興の三男・忠利の義兄弟)へ中津城の天守を譲ると記されているので、このときに、何らかの理由で移築を余儀なくされたことがわかります(明石城でも天守でなく、ほかに使われたと推測されています)。
寛永9年(1632年)に細川家は熊本に移っているので、天守が再建されたとはいえず、以降、天守はなかったことがわかるのです。
旧藩主奥平家の末裔が築いた観光天守

では、現在の天守は、何を根拠に建てられたのでしょう。
全国各地でコンクリートの復興天守の建設が盛んな昭和39年、模擬天守として築造された建物です。
あくまで観光的なシンボルとしての天守で、旧藩主奥平家の末裔・奥平昌信が中心となって進められた計画です。
この模擬天守が建つのは、往時には本丸・北東隅櫓のあった場所。
設計を担ったのは、小倉城、岩国城などの設計も行なった東京工業大学教授で建築史家の藤岡通夫(ふじおかみちお)。
外観は萩城天守をモデルとした5層5階です。
つまりは中津城というよりも、萩城というべき外観で、あくまで観光のシンボルとしての建築物ということになります。
天守の南側には、望楼型の二重櫓・大鞁櫓(だいひやぐら)が建てられていますが、かつては層塔型の南東隅櫓があった場所で、この建物も史実とは大違いということに。
セットで史実無視という徹底ぶりですが、「日本三大水城」を学ぶ資料館としては、貴重な存在です。
しかも見栄え重視という外観ゆえに、写真写りもバッチリで、SNSを中心に人気を集めているのです。
あくまで資料館、被写体と割り切って、ぜひ一度登城をおすすめします。
| 確実に誤解を生む! まさかの天守閣(11)中津城 | |
| 名称 | 中津城/なかつじょう |
| 所在地 | 大分県中津市二ノ丁1273 |
| 関連HP | 中津城公式ホームページ |
| 電車・バスで | JR中津駅から徒歩15分 |
| ドライブで | 宇佐別府道路宇佐ICから約17.8km |
| 駐車場 | 中津城公園駐車場(50台/無料) |
| 掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 | |













