日本スキー発祥記念館

日本スキー発祥記念館

新潟県上越市、金谷山スキー場下に建つのが日本スキー発祥記念館。明治44年にオーストリア=ハンガリー帝国の軍人のレルヒ少佐が、新潟県中頸城郡高田町(現・上越市)に駐屯する歩兵第58連隊の14名の青年将校に対し日本で初めてスキーの指導を行なったことを後世に伝えるための記念館です。

近代スキーの始まりを今に伝える記念館

日本スキー発祥記念館

明治44年1月12日午前8時、歩兵第58連隊の営庭(現・上越市立城西中学校校庭)でスキー専修将校を前にしたオーストリア=ハンガリー帝国の軍人・テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐(Theodor Edler von Lerch)は「メートゥルスキー(スキーを履きなさい)」と号令。
レルヒ少佐は、こうして鶴見宜信大尉ら14名の青年将校(スキー専修将校)に最新のオーストリア式スキー術を伝授したのです。
これが日本のスキーの事始めで、毎年1月12日が「スキーの日」となっているのは、このことに由来。

近代スキーの日本への伝来を今に伝える日本スキー発祥記念館には、当時のスキーやレルヒ少佐に関する資料が展示され、とくにスキー用具の変遷は必見の展示内容になっています。

令和元年、日本とオーストリアの国交樹立150年を記念し、レルヒ少佐が日本に伝えた一本杖スキー発祥の地、リリエンフェルト市(Lilienfeld)のツダルスキー博物館(Zdarsky-Stüberl/Zdarsky Museum)から寄贈された一本杖スキーも展示されています。

ちなみに新潟県観光キャンペーンのキャラクターとして誕生したゆるキャラは、レルヒ少佐を模した「レルヒさん」になっています。

レルヒ少佐が日本に伝えた「一本杖スキー」

レルヒ少佐(明治44年1月12日)
レルヒ少佐(明治44年1月12日)

レルヒ少佐招聘の背景には、日露戦争を前にして、明治35年の八甲田山雪中行軍で多数の将兵が凍死するという悲劇もあり、日本陸軍にとって、最新のスキー技術の導入が急務となっていたのです。
オーストリア=ハンガリー帝国にとっても、日露戦争に勝利した日本陸軍の研究という目的があり、交換将校として来日したのです。

レルヒ少佐(日本に滞在中に中佐に昇格し、北海道ではレルヒ中佐と呼ばれています)は一本杖、二本杖の両方の技術をマスターしていましたが、日本で伝えたのは杖を1本だけ使う「リリエンフェルト式スキー術」(オーストリア式スキー術)。
これは越後高田など、急峻な日本の地形を目にし、世界的には主流だったノルウェー式ではなく(ノルウェー式はスキー板に固定する締具は簡単なものだったため、急な斜面を滑ることができませんでした)、「山岳スキー術」ともいえるリリエンフェルト式を伝授したもの。

一本杖スキーは、アルペンスキーの創始者、マチアス・ツダルスキー(Mathias Zdarsky)が最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案、創始したもの。
短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良しています。

ノルウェー流の滑降技術には無かったシュテムによる技術体系を確立し、急峻なアルプスの山地に適した低い姿勢で滑走します。
回転技術はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲンの2つ。
山岳地帯での転倒は大事故につながるということで、低速度、多回転、用杖技術に特化した、まさに「山岳スキー術」です。

レルヒ少佐はマチアス・ツダルスキーの弟子になります。

日本スキー発祥記念館
名称 日本スキー発祥記念館/にほんすきーはっしょうきねんかん
所在地 新潟県上越市大貫1453-1
関連HP 上越市公式ホームページ
電車・バスで JR高田駅からタクシーで10分
ドライブで 上信越自動車道上越高田ICから約2km
駐車場 46台/無料
問い合わせ 日本スキー発祥記念館 TEL:025-523-3766
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
レルヒ祭

レルヒ祭(新潟県上越市)

2月第1土・日曜に、上越市の金谷山スキー場、高田本町商店街などを会場に『レルヒ祭』が行なわれます。明治44年、オーストリアの軍人レルヒ少佐が日本に初めてスキー術を伝えた日本スキー発祥の地「金谷山」でその歴史と伝統を全国に発信するイベントです

 

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