河井継之助記念館

河井継之助記念館

幕末の文政10年1月1日(1827年1月27日)、越後長岡藩の長岡城下(現・新潟県長岡市)に生まれ、その後の長岡藩を率いた河井継之助(かわいつぎのすけ)。父は120石の中級武士で、邸宅は御堀の外、神田橋門近くの現在の長岡市長町1丁目にありました。現在その跡地には、河井継之助を記念する河井継之助記念館が建っています。

河井継之助の波乱に満ちた生涯をたどろう

館内2階では、江戸で蘭学や西洋砲術を学び、藩の役職を得ますが辞任、その後西国遊学の最中に陽明学を修め、そして帰郷後には藩の財政を再建、最後は長岡藩家老として軍事総督を務め、北越戊辰戦争によって42歳の生涯を閉じるという、波乱に満ちた継之助の生涯を地図やパネルで解説しています。

また備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国諸国(備中松山、佐賀、長崎、熊本)を遊歴した際、継之助がしたためた旅日記『塵壺』や、愛用の硯などの展示もあり、こちらも見逃せません。

1階には北越戊辰戦争の「長岡城攻防戦」の際、継之助の手によって、日本で初めて使用されたという、ガトリング砲の複製なども展示されています。

司馬遼太郎の『峠』は、それまでほとんど無名に近かった河井継之助を有名にした長編時代小説。
2020年に『峠 最後のサムライ』(主演:役所広司)として映画化されています。

河井継之助記念館
河井継之助銅像
河井継之助記念館
ガトリング砲(複製)

河井継之助と戊辰戦争

戊辰戦争が始まり、明治元年・慶応4年1月3日〜6日(1868年1月27日〜30日)の鳥羽伏見の戦いで、幕府軍が敗北し、将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が江戸に密かに逃れたことを知った大坂警備の河井継之助は、急ぎ江戸へ戻ります。
藩邸を処分し、暴落した米を買って函館へ運んで売り、軍資金をつくります。
その金をもとにアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃を購入し、薩摩・長州を中心とした新政府軍との決戦に備えたのです。
世襲家老の首座・稲垣平助など長岡藩が恭順へと傾くなかで、第5代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、1823年に議会で行なったモンロー宣言(モンロー主義)の影響を受け、「獨立特行」を主張して、明治元年・慶応4年5月2日(1868年6月21日)、尾張藩の仲介で小千谷・慈眼寺で新政府軍監の土佐藩・岩村精一郎と会談。
しかし、会談は決裂して北越戦争へと至り、5月19日(7月8日)に長岡城が落城しています。
長岡藩内には大規模な世直し一揆も発生し、藩内は混乱。
7月24日(9月10日)に奇襲攻撃(八丁沖渡沼作戦)で長岡城を奪還しますが、戦の大勢、そして歴史の流れは維新へと大きく動いていました。
7月29日(9月15日)に長岡城は、再び新政府軍の手に落ち、河井継之助も会津へと脱出。
途中、8月16日(10月1日)、塩沢村(現・福島県只見町)の医師・矢澤宗益宅にて破傷風のため没。
享年42。
河井継之助終焉の地は只見川電源開発で水没しています。

河井継之助記念館
名称河井継之助記念館/かわいつぎのすけきねんかん
所在地新潟県長岡市長町1丁目甲1675-1
関連HP河井継之助記念館公式ホームページ
電車・バスでJR長岡駅から徒歩10分
ドライブで関越自動車道長岡ICから約7km
駐車場7台/無料
問い合わせ河井継之助記念館 TEL:0258-30-1525/FAX:0258-30-1526
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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