榎峠古戦場パーク

榎峠古戦場パーク

新潟県長岡市南端の旧国道17号沿い、妙見堰近くにあり、小千谷市とも接するのが榎峠(えのきとうげ)。ここは明治元年・慶応4年(1868年)の北越戊辰戦争時、新政府軍と長岡藩軍(奥羽越列藩同盟)の攻防戦が行なわれた激戦地です。榎峠古戦場パークとして整備され、道路脇には、榎峠古戦場記念碑が立てられています。

三国峠の要衝・榎峠で北越戊辰戦争は始まった!

まずは明治元年・慶応4年(1868年)4月27日、越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、新政府軍が長岡に隣接する小千谷に侵攻。
5月2日には、長岡藩の河井継之助と新政府軍の軍監・岩村精一郎が小千谷の慈眼寺で会談。
これがいわゆる「小千谷談判」ですが、会談は決裂。

翌日(5月3日)には、早くも尾張藩・上田藩連合軍が榎峠に陣を敷いています。
5月4日、長岡藩の本陣が置かれた光福寺で、開戦が決定され、奥羽列藩同盟への参加を決定して「奥羽越列藩同盟」を結成。

とはいえ、新政府軍の兵力約2万に対して同盟軍は約5千と、その差は歴然でした。
そこで長岡藩の軍事総督を務めた河井継之助は、三国街道の要衝である榎峠の奪還を緒戦の肝と位置づけ、5月10日には、長岡藩の本陣が置かれた長岡市摂田屋地区の光福寺から、軍事掛・三島億二郎(川島億次郎)らを指揮官に同盟軍を派遣。
激戦を制し、榎峠奪取に成功しています。

ただし、主戦力を榎峠に向けたため、長岡城下の防備が手薄となり、新政府軍は5月19日に与板藩の御用商人による舟の援助を受けて信濃川を渡河するという奇襲作戦を展開。
見事に長岡城を攻略しています。
新政府軍は海軍を日本海に展開し、5月24日の寺泊沖海戦で制海権を掌握。

対する長岡藩は、河井継之助の奇策で、沼地だった八丁沖を渡り、7月24日に長岡城を奪還しますが、7月25日に新政府軍は新発田藩領の太夫浜(現・新潟市北区)へ上陸し、新発田藩を恭順させ、米沢藩兵・会津藩兵・仙台藩兵を撃破して7月29日に新潟町(現・新潟港)を制圧。
同時に7月29日には長岡城を制圧しています。

こうして北越戊辰戦争は終焉を迎え、河井継之助も7月29日に負傷し、歩行困難ながら会津へと逃避しますが、その途中、8月16日に塩沢村(現・只見町塩沢)で破傷風により没しています。

司馬遼太郎が河井継之助を主人公に執筆した小説『峠』の峠とは、北越戊辰戦争の緒戦となった榎峠のことです。

榎峠古戦場パーク
名称榎峠古戦場パーク/えのきとうげこせんじょうぱーく
所在地新潟県長岡市妙見町
ドライブで関越自動車道小千谷ICから約6.7km
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
慈眼寺

慈眼寺

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朝日山古戦場

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