旧五輪教会堂

旧五輪教会堂

長崎県五島市蕨町にある教会堂(聖堂)が旧五輪教会堂。明治14年、五島列島の久賀島浜脇に浜脇教会として建てられたもので、昭和6年、現在地(五島市五輪地区)に移築。現存する木造教会堂としては最古の部類もので、国の重要文化財にも指定されています。

明治14年築の浜脇教会を移築

旧五輪教会堂

久賀島には18世紀末から大村藩からの入植があり、外海地方(そとめちほう)からの移住者に、潜伏キリシタンが含まれていたことから潜伏キリシタンの集落が形成されました。
明治6年の禁教令廃止後、明治14年に建てられたのが浜脇教会(旧五輪教会堂)なのです。

老朽化により取り壊される運命でしたが、教会堂を持たなかった五輪地区の信徒が、移築を熱望。
解体した部材は筏(いかだ)で海上を運び、組み立てられたのです。

昭和60年、隣接地に新たに新天主堂(カトリック五輪教会)が建てられたことにより福江市(現在は五島市)に移譲され、旧五輪教会堂として保存公開されています。
建物は木造瓦葺き平屋建てで、窓がポインテッドアーチ型(尖頭アーチ型)である以外は、まさに純和風。
長崎県にある教会堂としては大浦天主堂(国宝)に次ぐ古さを持つ木造教会です。

ただし内部は三廊式、かまぼこ型のリブ・ヴォールト(Rib vault)の天井に加え、ゴシック風の祭壇など、教会建築の様式を整えています。
五輪地区は久賀島の中でいまだに直接車で行くことができない陸の孤島。

世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成資産である「久賀島の集落」の一部となっています。

旧五輪教会堂の見学は、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンターに事前連絡が必要です。

旧五輪教会堂

キリシタン弾圧の「五島崩れ」は久賀島から始まった

長崎・大浦天主堂の献堂式から1ヶ月後の元治2年2月20日(1865年3月17日)、杉本ユリをはじめとする浦上の潜伏キリシタン15人が天主堂で、プチジャン神父に自分たちもキリシタンであることを告白します。

これが世に知られる「信徒発見」で、厳しい禁教令と宣教師がいない状況が250年間もの長きに渡って続いていたのに、キリスト教への信心を捨てなかった信徒が多数いたことがわかったのです。
この事件は、五島列島や外海の潜伏キリシタンにも口伝えで広まり、「フランス寺の見学」と装って大浦天主堂に出向き、礼拝したり洗礼を受けたと伝わります。
ところが、「浦上四番崩れ」と呼ばれる弾圧が始まり、信者ら68人が捕縛され激しい拷問を受けることに。

五島列島でも潜伏キリシタンたちが次々と信仰を表明したため、明治元年9月29日(1868年11月12日)、久賀島ではキリシタン約200人が松ヶ浦の大開(おおびらき)の牢屋に閉じ込められ、石抱や水責めなどの拷問を受けます。
明治初年に廃仏毀釈、神仏分離を行ない、天皇制と結びついた国家神道を基盤に、中央集権国家づくりをめざした明治政府は、江戸時代同様の激しい弾圧と、過酷な拷問を継続。
狭い牢屋に押し込み、獄死した死亡者39名、出牢後の死亡者は3名という悲しい出来事が起こったのです。
これが「五島崩れ」と呼ばれるものですが、それが始まったのがこの久賀島です。

明治政府のキリシタンへの弾圧を知った長崎の外国領事は長崎府知事・澤宣嘉(さわのぶよし)に抗議を行ない、明治2年11月のイギリス公使ハリー・パークス(Sir Harry Smith Parkes)の久賀島実情調査が行ない、明治政府に抗議したことから、表立った拷問は終息します。

旧五輪教会堂
名称 旧五輪教会堂/きゅうごりんきょうかいどう
所在地 長崎県五島市蕨町993-11
関連HP 五島市公式ホームページ
ドライブで 福江港から木口汽船のフェリーで20分、田ノ浦波止場下船、約8km
駐車場 なし
問い合わせ 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター TEL:095-823-7650/FAX:095-895-9690
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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