長崎県長崎市館内町にある、鎖国時代の日本の交易を支えた中国人(唐人)たちの居留地に築かれた媽祖廟(まそびょう)の遺構が旧唐人屋敷・天后堂。天后堂(てんこうどう)は、元文元年(1736年)に、南京出身の人々が航海の安全を祈願して天后聖母(媽祖、天上聖母=航海安全の守護神)を祀ったのが始まり。
『長崎名勝図絵』にも記されたお堂
唐人屋敷は、元禄2年(1689年)、江戸時代の鎖国政策で、密貿易防止のために築かれた中国人の居留地(屋敷地)。
現在の館内町のほぼ全域にあたる9400坪、出島の3倍というスペースに、木造2階建ての長屋20棟が建てられていました。
鎖国時代の長崎には全国から多くの武士、学者が遊学に訪れていますが、その主目的は、漢詩文・絵画・書などを、唐人屋敷の唐人に学ぶこと。
総人口6万人という江戸時代の長崎に住む唐人は、1万人ともいわれ、実は中国貿易は、オランダ貿易を量・利益ともに上回っていたのです。
出島を目指す人よりも、唐人屋敷を目指す人が多かったのも、ここが海外文化の最大の発信地だったからです。
そんな貿易を担った唐船の関係者は、航海の安全のため、チャイナタウンには媽祖廟(長崎では天后堂)を築いています。
現在の天后堂の建物は、明治39年、全国の華僑の寄付によって再建されたもの。
平成29年には中国・福建省出身の貿易商によって明治元年に組織された商工団体の福建会館(設立時は「はちびん会館」)により、修復されています。
開国後に、唐人屋敷は荒廃しますが、華僑たちにとって天后堂がいかに重要な聖地だったかがわかります。
天后堂にも、本来は関帝廟に祀られる関羽も併祀され、「関帝堂」とも呼ばれています。
横浜中華街には、関帝廟と媽祖廟が独立して建っていますが、長崎に住む華僑は、天后堂に祀っていました。
長崎奉行・筒井政憲が文政年間(1820年頃)、饒田喩義(にったゆぎ)に命じて編纂した『長崎名勝図絵』にもその姿が描かれ、由来が記されています。
旧唐人屋敷・天后堂 | |
名称 | 旧唐人屋敷・天后堂/きゅうとうじんやしき・てんこうどう |
所在地 | 長崎県長崎市館内町18-5 |
関連HP | 長崎市公式ホームページ |
電車・バスで | JR長崎駅から路面電車で6分、築町下車、徒歩10分 |
ドライブで | 長崎自動車道長崎ICから約4km |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 長崎市文化財課 TEL:095-829-1193 |
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