金石城跡

戦国時代の初期、1528(享禄元)年に、宗将盛(そうまさもり)が対馬に築いた金石屋形(かねいしのやかた)を前身とする宗氏の居城跡が金石城跡。対馬市街を挟んで北東隣の桟原城(さじきばらじょう)とあわせて厳原城(いずはらじょう)とも呼ばれています。金石川沿いに開けた谷筋の最奥部に位置し、豊かな自然が残されています。

対馬藩の藩庁となった宗氏築城の城

1528(享禄元)年の内乱(豆酘郡主の一族の謀反)で、宗将盛が築いた池の屋形(現・池神社付近にあったとされる居館)は焼失。
宗将盛は国分寺に避難し、国分寺の東側が空き地だったので、そこに新しい屋形を築きました。
それが金石屋形。
1592(文禄元)年に始まった、秀吉の命による朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)の際に金石屋形から城郭へと修築されています。

藩政時代となった1669(寛文9)年、府中湊の整備、藩校の創設など藩政の基礎をつくった対馬藩3代藩主・宗義真(そうよしざね)が、それまでの城を整備・拡張して近世的な城郭に整えました。
天守は築かれず、宗義真によって造られた大手口の櫓門を代用天守としていました。

1678(延宝6)年、桟原城(さじきはらじょう)が完成すると藩庁機能は失われていますが、その後も城は存続。
つまり、一国一城令の後には、桟原城を「御屋敷」、金石城を「御城」として両立させたのです。

1806(文化3)年から翌年にかけて朝鮮通信使を迎えるために城内の整備が行なわれています。
当時はまさに国境の城でした。

1813(文化10)年、火災でこの大手門櫓は焼失し、1817(文化14)年に二重櫓門を再建しましたが、その櫓門も老朽化により大正8年に解体されています。
城跡は、国の史跡に指定され、旧金石城庭園は国の名勝となっています。

城内には昭和63年の台風で倒壊した桟原城大手門が移築復元されています。
平成2年に古写真などに基づいて二重の櫓門が再建。

金石城跡
名称 金石城跡/かねいしじょうせき
Kaneishi Castle Ruins
所在地 長崎県対馬市厳原町今屋敷670-1
関連HP 対馬観光物産協会公式ホームページ
ドライブで 厳原港から約1km。対馬空港から約12km
駐車場 あり
問い合わせ 対馬観光物産協会 TEL:0920-52-1566
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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