清水山城

清水山城

長崎県対馬市厳原町、近世の城・金石城(最初に対馬藩藩庁が置かれた城)の背後にそびえる清水山(210m)の山上に、豊臣秀吉の命で文禄・慶長の役の兵站基地として築かれた城が、清水山城(しみずやまじょう)。壱岐島の勝本城とともに中継基地として機能しました。国の史跡。

朝鮮半島・釜山城までの駅城として築かれた山城

清水山城
清水山山頂の一ノ丸(本郭)

九州よりも朝鮮半島のほうが近いという対馬は、豊臣秀吉の命で文禄・慶長の役でも最前線の兵站基地として重視されました。
陣城普請を命じられ、清水山城を築いたのはキリシタン大名の毛利高政(もうりたかまさ/築城時は毛利友重)と推測され、文禄元年(1592年)、文禄の役が始まると舟奉行を務めて渡海。
慶長2年(1597年)、慶長の役では軍目付になっています。

近年では、当時、対馬を領有した宗義智(そうよしとし=後の初代対馬藩主)を中心に、肥後人吉の相良長海、筑後三池の高橋直次、筑後福島の筑紫広門ら大名たちが協力したという説も有力で、築城者は今も定かでありません。

清水山の山上、清水山の頂上に一ノ丸(東西50m、南北40m、中央に矢倉の基壇)、東の尾根の先端に三ノ丸、その中間の段に二ノ丸と称する三段の曲輪が500mにわたって並び、堅牢な石垣で囲まれた総石垣の城郭。
眼下には、渡海の拠点となる厳原港、快晴なら遠く壱岐島を眺望できます。
山上に堅牢な石垣を組んでいることから、安土城の築城などで活躍した穴太衆(あのうしゅう)が動員されたのかもしれません。

当時、国境の島を領有した宗義智は、李氏朝鮮(りしちょうせん)との交渉の窓口で、朝鮮王朝とも交易がありました。
当時は、宣祖(ソンジョ/李氏朝鮮時代の第14代国王)の時代で、朝廷では西人と東人と呼ばれる2大勢力が勢力争いを繰り広げていました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵により、交易は断絶し、島民の生活は苦難の道を歩みますが、徳川の治世となり、宗義智は朝鮮王朝との国交回復に尽力、朝鮮通信使の招聘に成功し、交易を再開させています。

清水山城は、朝鮮出兵後に廃城となっていて、その後の大きく改変されることなく保存され、国境の島に中世と近世の過渡期に築かれた貴重な城として、お城ファンに注目の山城のひとつになっています。

「観光情報館ふれあい処つしま」から登山口(登城口)まで350m、徒歩10分。
さらに三ノ丸までは150m、徒歩6分、一ノ丸まではさらに500m、徒歩25分。
のんびり歩いて1時間弱という行程です。

清水山城
名称 清水山城/しみずやまじょう
所在地 長崎県対馬市厳原町西里
関連HP 対馬観光物産協会公式ホームページ
ドライブで 厳原港から約1.5km。対馬空港から約11km
問い合わせ 対馬観光物産協会 TEL:0920-52-1566
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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