シーボルト記念館

シーボルト記念館

長崎県長崎市鳴滝にあるシーボルトの偉業を今に伝える長崎市立の博物館はシーボルト記念館。シーボルトは、江戸時代の日本に西洋医学や博物学を伝え、科学的な総合調査にもとづきヨーロッパに日本を広く紹介した偉人。記念館は、国指定史跡シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)に隣接する地に建っています。

シーボルトの業績を詳しく紹介

シーボルト記念館

シーボルト記念館の外観はオランダ・ライデン市のシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父カール・カスパル宅をイメージして造られています。
1階ではビデオでシーボルトの生涯を紹介し、2階は6つのコーナーに分けた常設展示室。
3階は特別展を開催する企画展示室となっています。

常設展示では「当時の世界と日本」、「東洋への関心」、「日本研究と医学教育」、「江戸参府前後」、「帰国と再渡来」、「子孫と顕彰」の6コーナーでシーボルトの生涯と功績が詳しく紹介されています。
全国からシーボルトに関する資料1500点を収集し、うち216点を常設展示し、年代順にシーボルトの生涯を誕生から死後に至るまで紹介しているので、激動の時代と日本の近代化の歩みがよくわかります。

シーボルトの年譜と業績

シーボルト肖像画
川原慶賀『シーボルト肖像画』(油彩・長崎歴史文化博物館収蔵)

文政6年7月6日(1823年8月11日)、27歳の時、長崎に来航したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)。

ジャカルタ駐在中にオランダ領東インド総督へ希望し、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となります。
シーボルト本人はドイツ人だったため、オランダ語の発音が日本人通辞よりも不正確だったと伝えられています。

文政7年(1824年)、出島外に鳴滝塾を開設し、日本人に西洋医学(蘭学)教育を実施。
文政9年(1826年)、オランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行(30歳)、『参府旅行中の日記』を残しています。

文政10年(1827年)、楠本滝との間に娘・楠本イネをにもうけますが、翌年、帰国する際に、先発した船が難破し、海中に流出した荷のなかに当時禁輸だった日本地図が含まれていたことからシーボルト事件が勃発。
文政12年(1829年)、日本を追放されますが(33歳)、帰国後に日本についての本格的な研究書である『日本』や、日本の植物・動物を紹介する『日本植物誌』、『日本動物誌』などを出版。
日本の植物を栽培し、ヨーロッパに普及させ、日本研究の第一人者となったのです。

開国後(日蘭修好通商条約締結後)、シーボルトに対する追放令も解除され、安政6年(1859年)にオランダ貿易会社顧問として再来日し(63歳)、文久元年(1861年)には幕府から江戸に招かれています。
文久2年(1862年)に日本を離れ(66歳)、ドイツのミュンヘンで慶応2年(1866年)、70歳で没しています。

シーボルト記念館
名称 シーボルト記念館/しーぼるときねんかん
所在地 長崎県長崎市鳴滝2-7-40
関連HP 長崎市公式ホームページ
電車・バスで JR長崎駅前から路面電車で新中川町電停下車、徒歩7分
ドライブで 長崎自動車道長崎芒塚ICから約4km
駐車場 13台/無料
問い合わせ シーボルト記念館 TEL:095-823-0707/FAX:095-823-0170
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)

シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)

長崎県長崎市鳴滝にあるシーボルトが出島から出た後、日本人に西洋医学(蘭学)教育を実施した場所がシーボルト宅跡(鳴滝塾跡)で国の史跡になっています。30歳のときにオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行していますが、長崎での活躍の拠点が鳴滝

 

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