口之津歴史民俗資料館・海の資料館

口之津歴史民俗資料館・海の資料館

島原半島の南端にある天然の良港、口之津。永禄10年(1567年)、ポルトガル船3隻が入港して以来、戦国時代には南蛮貿易の拠点ともなりました。そんな口之津の歴史を紹介するのが南島原市の口之津歴史民俗資料館・海の資料館。レトロな建物は明治32年築の旧長崎税関口之津支署庁舎で、口之津で唯一の明治時代の擬洋風建築です。

すべては南蛮貿易から始まった!

口之津の歴史は、中世の風待ち湊に始まり、戦国時代の永禄5年(1562年)、日野江城主・有馬義貞(ありまよしさだ)が南蛮貿易を目的に貿易港として開港。
永禄10年(1567年)にはポルトガル船3隻が入港し、以降、戦国時代には南蛮貿易、さらにはキリスト教布教の拠点として発展。
天正7年(1579年)、イエズス会東インド管区の巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)が口之津に降り立ち、島原半島を領有し、経済力を蓄えるためには、イエズス会への接近が賢明と考えた日野江城主・有馬晴信は自ら洗礼を受けて信者となっています。
さらに天正8年(1580年)には織田信長の招聘した安土城下とともに、日野江城下にもセミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関)が開かれています。

明治11年、三池炭鉱の石炭積出港に

その後、鎖国政策、島原・天草一揆(島原の乱)、禁教令などで衰退しますが、明治11年5月、三井三池炭鉱の石炭積出港となり、再び繁栄を迎えます(明治43年に三池港開港で大正12年に終焉)。
資料館の前身となる長崎税関口之津支署庁舎は、口之津港が三井財閥による三池炭鉱の石炭輸出港として許可された事を契機に開設されたもの。
資料館には口之津灯台の初代のレンズが保存されていますが、この灯台も三井財閥の石炭輸出の安全を確保するため明治13年、長崎県で3番目(九州で7番目)のという灯台として開設されたもの。

三井三池炭鉱の石炭は、有明海が干満の差が大きいこと、干潮時に干潟が広がることから輸出に困難を極めていましたが、大牟田川河口から小型船で口之津へ運び、口之津で大型船に積み替えることで活路を見出し、その後の三井財閥の発展へとつながっています。
繁栄する口之津の人手不足を補うために、与論島からの集団移住(明治32年)もありました。

戦後は昭和29年に国立口之津海員学校(現在の国立口之津海上技術学校)が設立され、三井グループの船乗りを中心に「日本一の船員の町」という側面も有しています。
資料館には口之津の船員たちが海外から持ち帰った土産なども所狭しと展示されています。

また、石炭船は「からゆきさん」(唐行きさん)と呼ばれる少女たちの密航にも使われました。
島原や天草の農漁村の貧しい家庭の娘たちは、嬪夫(ぴんぷ)などと呼ばれた斡旋業者の手に渡り、口之津から石炭船に乗せられ、海外の娼館(しょうかん)で働かされたのです(山崎朋子の『サンダカン八番娼館-底辺女性史序章』などで知られています)。

戦国時代以降の日本の歴史が凝縮する口之津、時間が許せば、名物館長の解説を聞きながら、じっくりと見学を。

口之津歴史民俗資料館・海の資料館は島原半島世界ジオパークのジオサイトにもなっています。

取材協力/南島原市、口之津歴史民俗資料館・海の資料館

名称 口之津歴史民俗資料館・海の資料館/くつのつれきしみんぞくしりょうかん・うみのしりょうかん
所在地 長崎県南島原市口之津町甲16番7
関連HP 南島原市公式ホームページ
電車・バスで 口之津港から徒歩20分
ドライブで 長崎自動車道諫早ICから約55km。口之津港から約1.5km
駐車場 20台/無料
問い合わせ TEL:0957-73-6773/FAX:0957-86-4880
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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