長崎県島原市新山にある潜伏キリシタンなどを処刑にした刑場跡が今村刑場跡。島原城下の南端で、寛政4年4月1日(1792年5月21日)に起こった雲仙・普賢岳の噴火に伴う眉山崩壊(「島原大変肥後迷惑」)による土石流で、埋まるまで、このあたりが海岸線でした。
松倉重政時代に潜伏キリシタンを火刑にした地
今村刑場跡のある場所は、島原街道(殿様道)が通り、南目(島原半島南部)への出入口となっていた交通の要衝。
島原城築城の頃から、この地(今村)に刑場が設置され、交通の要衝で見せしめに晒し首にしていたのです。
原城と日野江城を廃して島原城を築城した松倉重政(まつくらしげまさ)は、禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、過酷な取り立てで、島原・天草一揆(島原の乱)の原因をつくりますが、江戸幕府のキリシタン弾圧政策に従い、元和7年(1621年)、潜伏キリシタンへの弾圧をも開始し、元和8年(1622年)、今村刑場でイタリア人宣教師・ナバルロ神父(ペドロ・パウロ・ナバルロ/P.Pedro Paulo Navarro)、クレメンテ久右衛門、ディオニシオ藤島、ペドロ鬼塚など大村領信者56人の処刑(火刑)を行なっています。
ナバルロ神父に対しても、当初、南蛮貿易を重視することもあって松倉重政は密かにマカオに逃すことを考えていると伝えていましたが、幕府の強硬姿勢を受けて、方針を転換させ、火刑に。
松倉重政の潜伏キリシタンへの改宗を迫る拷問は凄まじく、指を切り落としたり、雲仙地獄で熱湯を掛けるなどの仕打ちで多くの信徒が命を落としています(雲仙地獄にはキリシタン殉教記念碑が建立されています)。
眉山崩壊(「島原大変肥後迷惑」)ではいったん埋没しますが、埋没地の北の縁に位置していたことから、引き続き処刑場となり、明治3年まで使われていました。
天保14年(1843年)10月には、島原藩医・市川泰朴(いちかわたいぼく)や、シーボルトに学び島原藩薬園(現・旧島原藩薬園跡)を開いた賀来佐一郎(かくすけいちろう)たちが、ここで処刑された罪人の解剖を行なっています。
明治3年、最後の処刑者がお糸であったのでここをお糸が墓とも呼ばれています。
ちなみに、お糸が処刑されたときに湧き出した地獄が雲仙地獄のお糸地獄(温泉たまごの雲仙地獄工房があります)。
今村刑場跡 | |
名称 | 今村刑場跡/いまむらけいじょうあと |
所在地 | 長崎県島原市新山 |
関連HP | 島原市公式ホームページ |
電車・バスで | 島原鉄道島原港駅から徒歩20分 |
ドライブで | 長崎自動車道諫早ICから約42km |
問い合わせ | 島原市教育委員会 TEL:0957-68-1111 |
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