『魏志倭人伝』に記載される邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓ともいわれるのが奈良県桜井市、箸墓古墳((はしはかこふん/3世紀中頃~後半の前方後円墳)ですが、同じ纒向古墳群(纒向遺跡)の纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)は3世紀初頭に築かれた前方後円墳で、日本最古の古墳の有力な候補です。
纒向遺跡は、邪馬台国の王都、ヤマト王権発祥の地の可能性も
纒向石塚古墳の築造年代は、研究者によっても異なりますが周濠(しゅうごう)より弥生時代末期から古墳時代初頭の土器が出土していることからも古墳時代前期初頭と推測されています。
古墳を取り巻く周濠から出土した檜(ヒノキ)製の板材の年輪年代測定では、紀元177年との結論で、伐採は200年以前ということから、3世紀以前に築造が始まった可能性もあるのです。
纒向古墳群(纒向遺跡)は、遠く九州や関東で生産された土器(搬入土器)の出土比率が15%前後を占めることから、古墳時代に全国と交流があり、しかも出土品にも農機具が少なく、土木工事用の工具が圧倒的という点、さらに日本で最初に古墳が築かれた「発生期古墳」が多いことから、弥生時代のムラからクニに推移した後の日本最初の「都市」(邪馬台国の王都?)、あるいはヤマト王権最初の「都宮」だった可能性もあります。
纒向遺跡は、古墳時代の初めにもっとも繁栄した巨大集落であることは間違いなく(邪馬台国畿内説の有力比定地)、その意味でも最初の古墳(ヤマト王権のシンボル、前方後円墳)がこの地で誕生したという可能性は大なのです。
3世紀後半築造、全長280mの巨大な前方後円墳で、卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳は、まさに一帯のシンボルですが、箸墓古墳よりも、さらに古い時期の前方後円墳として、纒向石塚古墳、矢塚古墳、纒向勝山古墳、ホケノ山古墳があることに注目を。
「後円部に対して未発達な前方部」ということから、築造が3世紀前半に遡る可能性があるのです。
様々な調査から、矢塚古墳、ホケノ山古墳は、3世紀中頃の築造と推測されています。
纒向勝山古墳の築造年代は、出土遺物が3世紀前半を主体とするものと、3世紀後半を主体とする一群があり特定されていません。
最古の築造と目される纒向石塚古墳は、標高69m前後の扇状地上に立地し、墳丘長99m。
その後の古墳に見られるような墳丘を覆う葺石(ふきいし)、テラスに並ぶ埴輪(はにわ)もありません。
全長と後円部径、前方部長の比率が3:2:1の「纒向型前方後円墳」の典型的なスタイルを有していますが、戦時中に高射砲が備えられたため、墳丘の上部が大きく削平されています。
纒向遺跡からは、2009年、柱遺構が発掘され、「卑弥呼の居館か」と話題になりました。
一帯は弥生時代には人家のない過疎地域だったことも判明しており、突然、他の地域に見られない大集落が形成された点、遺跡内ではいまだ田畑跡が確認されないことなどからも王都である可能性が高まっているのです。
全長・後円部・前方部の長さが3:2:1というヤマト王権のシンボル前方後円墳は、いずれにしろ、この向石塚古墳から始まっています。
日本最古の古墳(前方後円墳)は、奈良県桜井市の纒向石塚古墳!? | |
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