沖縄県那覇市、首里城公園の地下にある地下壕の跡が旧日本軍第三十二軍司令部壕。沖縄戦における日本軍沖縄守備第三十二軍の洞窟軍司令部跡です。昭和19年3月22日、南西諸島方面の防衛強化のために創設されたのが第三十二軍。アメリカ軍の沖縄上陸直後に、日本軍が司令部とした地下壕で、現存する沖縄戦の戦争遺構のひとつ。
首里城の下に築かれた沖縄戦の司令部跡
アメリカ軍の沖縄上陸(昭和20年4月1日)から日本軍南部撤退までの約1ヶ月間、アメリカ軍主力部隊の上陸地点を本島南部の嘉手納湾を中心とする西海岸と判断し、首里城近くの円鑑池(えんかんち)の近くに築かれた壕が沖縄守備隊の本部となりました。
地下壕の北端は現在の城西小学校校庭入口(第3坑道)、南は県立芸術大学研究所の林(第5坑道)で直線距離で390mにも及んでいます。
多数の市民と沖縄師範学校生徒の協力で掘削された壕は、全長は1000m以上にも及ぶコンクリートで固められた巨大な人工壕で(爆撃機の1トン爆弾に耐えられる構造)、アメリカ軍上陸後、首里城は攻防戦の中心となり、壕内には軍首脳以下、約1000人が生活。
地下壕には司令官室、参謀長室、作戦室、無線室、兵隊のベッドや炊事場、浴室にトイレまで完備されていました。
この壕が首里城の地下をくぐっていたため、首里城周辺には膨大な量の爆弾が投下され、艦砲射撃の標的にもなったため、一帯の文化財はことごとく破壊されたのです(この司令部壕からも多数の戦死体が収容されています)。
壕の内部は未整備であり公開されていません(入口のみ見学可能)。
円鑑池周辺には壕入口を守るトーチカ跡や通信所跡が残されています。
ちなみに、日本軍第三十二司令部は、5月下旬に首里が陥落すると南部の摩文仁の丘(現在の沖縄平和祈念公園)へ撤退し、抵抗を続けるものの、6月23日未明、牛島満軍司令官と長勇参謀長が自決し、軍としての組織的抵抗が終結しています。
日本軍の沖縄県民を犠牲にする沖縄本島南部での持久戦術、さらには軍司令部最後の打電が「諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」だったため、6月23日以降の沖縄南部の残存日本兵の掃討作戦開始後にも、投降が許されなかった戦闘員はもちろんのこと、動員された県民、そして非戦闘員にも多大な犠牲が生まれているのです。
旧日本軍第三十二軍司令部壕 | |
名称 | 旧日本軍第三十二軍司令部壕/きゅうにほんぐんだいさんじゅうにぐんしれいぶごう |
所在地 | 沖縄県那覇市首里真和志町1丁目 |
関連HP | 那覇市公式ホームページ |
電車・バスで | ゆいレール首里駅から徒歩12分 |
ドライブで | 沖縄自動車道那覇ICから約2.2kmで首里杜館駐車場 |
駐車場 | 首里杜館地下駐車場(有料)など周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 那覇市経済観光部観光課 TEL:098-862-3276/FAX:098-862-1580 |
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