沖縄本島南部の沖縄県糸満市にある琉球三山分立時代(14世紀頃)に栄えた城(グスク)が南山城(島尻大里城)。かつての高嶺間切(間切=地域)にあるため高嶺城とも、島尻大里間切とも呼ばれたため島尻大里城とも呼ばれ、三山時代(琉球統一前、北山王、中山王、南山王に分かれて分割統治した時代)の南山王の居城とされる城です。
三山時代末、最後に尚巴志が攻略した城
三山時代に、大里按司(按司時代最後となる按司)、承察度(しょうさっと=南山王国の初代国王)、汪応祖(おうおうそ=南京に留学、豊見城を築城、ハーリーを琉球にもたらしたとも)、他魯毎(たるみい=1429年、尚巴志に滅ぼされた南山王国最後の国王)の4代にわたって統治されたと推測されています。
糸満港を貿易港に、冊封体制(さくほうたいせい)のもとで、明との交易(朝貢外交)も行なわれているほか、同じ冊封国である朝鮮半島(朝鮮王)との交流も推測されています。
城跡には大正4年に城跡内に散在していた御嶽、墓所を東側に一角に集めて納骨堂と鳥居が造営され、軍靴の足音が響く昭和2年に南山神社が創建。
正殿は、現在の南山神社あたりにあったと推測されています。
戦後は大部分が糸満市立高嶺小学校の敷地となり、按司の墓(城跡西北隅)、石積みの一部、古い香炉のほかには往時の遺構はほとんど現存していません。
過去の発掘調査では、14世紀~15世紀の中国製磁器がかなりの量出土しており、この時期が南山城の繁栄した頃だと推測されています。
歴史的には1380年には初代南山王の承察度が、中国(明)と朝貢(冊封)関係を結び、1385年には明皇帝から山南王として鍍金の銀印を下賜されています(明朝朝廷によって編纂された歴史書『明実録』に記載)。
また1392年、佐敷按司(佐敷城主)となった尚巴志(しょうはし)は、1402年に島添大里城を攻略し、南山地域の半分ほどを支配下に治め、1406年には中山王・武寧をも滅ぼして勢力を拡大しています。
琉球南端の南山城も1429年、尚巴志によって滅ぼされ、三山(中山、山北、山南)の統一がついに実現、琉球王国最初の統一王朝が成立しています。
最後の南山王・他魯毎(たるみい)は、尚巴志の持つ金屏風を欲するあまり、豊かな水量で南山城下の田畑を潤し、南山繁栄の基盤をなした嘉手志川(カディシガー)を交換し、尚巴志が中山に帰属するもののみに嘉手志川の使用を許したため、他魯毎は重臣や領民の信望を失ったことが要因になったとも。
妻子とともに自害した場所が、糸満港に近い山巓毛(さんてぃんもう)だといわれています。
城跡の近くには水量豊富な嘉手志川(かでしがー/地元では「ウフガー」と呼称)もあるのであわせて見学を。
南山城(島尻大里城) | |
名称 | 南山城(島尻大里城)/なんざんぐすく(しまじりおおざとぐすく) |
所在地 | 沖縄県糸満市大里1901 |
関連HP | 糸満市公式ホームページ |
ドライブで | 那覇空港道路南風原南ICから約9km |
問い合わせ | 糸満市商工観光課 TEL:098-840-8135 |
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