読谷山飛行場跡・掩体壕

読谷山飛行場跡・掩体壕

沖縄県中頭郡読谷村、沖縄戦を控えた昭和18年に建設が始まった陸軍の読谷山飛行場(ゆんたんざひこうじょう=沖縄北飛行場)周囲に築かれた飛行機を格納するための頑強な施設が、掩体壕(えんたいごう)。読谷山飛行場には10基が築かれましたが、この1基しか現存しておらず、読谷村の史跡に指定されています。

住民を動員して築かれた飛行場跡地に唯一現存する掩体壕

読谷山飛行場跡・掩体壕

コンクリートなどの物資不足のなか、突貫工事で築かれた掩体壕なので、工法も工夫を凝らしたユニークなもの(空港建設を担ったのは地元、國場組)。
まずドラム缶を積み上げ、その上を土で覆い、カマボコ型の土盛りを築き、表面にセメント袋をかぶせて下から順にセメントを流し込み、セメントが乾いたら、カマボコ内部の土やドラム缶を掘り出して空間を生み出すという方法でつくられています。

当初は日本軍の沖縄防衛の航空基地でしたが、昭和20年4月1日のアメリカ軍上陸後、アメリカ軍によって拡張整備され、日本本土への攻撃基地として活用されています。
嘉手納基地(アメリカ軍占領以前は陸軍沖縄中飛行場)の完成に伴い、その補助飛行場となり、アメリカ軍のパラシュート降下訓練場として使われていました。
平成18年12月31日、読谷山飛行場は全面返還され、読谷村陸上競技場、オキハム読谷平和の森球場、読谷村総合運動広場、読谷村役場、読谷コスモス畑などが整備されています。

現存する掩体壕はかつての読谷山飛行場の北東の縁にあたり、日清日露戦争での戦没者を軍国主義化の流れの中で英雄として讃えるため昭和10年10月に建立された忠魂碑、義烈空挺隊玉砕の地碑も立っています。
義烈空挺隊は、航空機自体で強行着陸し、地上戦を展開して敵陣を撹乱する特攻隊で、昭和20年5月24日、熊本の健軍飛行場を離陸した特攻隊(奥山隊長以下120人が搭乗した12機)は、すでにアメリカ軍に占領されていた読谷山飛行場(沖縄北飛行場)に6機、沖縄中飛行場(嘉手納)に2機着陸(4機は引き返す)したと日本軍の記録にあります。
アメリが軍の記録では、読谷山飛行場(北飛行場)に5機侵入、4機は繋墜され1機が胴体着陸。
アメリカ軍の損害は9機炎上・29機損傷、7万ガロンのガソリン炎上、死者20名。
日本兵の死体は69と記録されています。
沖縄出身の兵隊も2名いたとされ、義烈空挺隊玉砕の地碑が立てられています。

北側の高台には世界文化遺産「琉球王国のグスク」の構成資産である座喜味城があるので、あわせて見学を。
戦時中、眺めのいい座喜味城にも陸軍が駐屯し、昭和19年10月10日の沖縄大空襲(十・十空襲)で激しい攻撃を受け、アメリカ軍の上陸戦では、空港確保をめざしての上陸となったことで(アメリカ軍は日本軍のほとんど抵抗なく上陸しています)、2002人もの村民が犠牲になっています(チビチリガマなど、子供を含め多くの集団自決も起こりました)。

読谷山飛行場跡
アメリカ軍が撮影した陸軍沖縄北飛行場
読谷山飛行場跡・掩体壕
名称 読谷山飛行場跡・掩体壕/ゆんたんざひこうじょうあと・えんたいごう
所在地 沖縄県中頭郡読谷村座喜味
ドライブで 那覇空港から約30km。沖縄自動車道沖縄南IC から約13km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
座喜味城

座喜味城

座喜味城(ざきみぐすく)は、沖縄本島中部の読谷村(よみたんそん)の小高い丘の上に位置し、15世紀の初めに、護佐丸按司(ごさまるあじ)が築城した城(グスク)。一帯は座喜味城跡公園として整備され、「続日本100名城」に選定されるほか、「琉球王国

 

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