沖縄本島南部の南城市玉城糸数にある鍾乳洞(自然洞窟=ガマ)が、糸数アブチラガマ。全⻑270mの鍾乳洞で、沖縄戦では糸数集落の避難壕でしたが、日本軍の陣地壕や倉庫として使用され、戦争が激化し、戦場が南下するに及んで病院壕として使われ、軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属されています。
沖縄戦では、避難壕、ひめゆり隊も入壕した病院壕に
アブ(深い縦の洞穴)チラ(崖)ガマ(洞窟)というのが名の由来で、その名の通り、奥深い洞窟は、地下壕に最適で、沖縄県各所のガマ(洞窟)が沖縄戦で避難壕として使われていますが、なかでも有名なのがこの糸数アブチラガマで、現在では沖縄戦の実相を現在に伝える平和教育の場として活用されています。
昭和19年7月には第9師団(武部隊)がアブチラガマに入り整備を開始(12月27日、台湾へ移動)。
昭和20年2月には製糖場の発動機を動かしガマ内に電気を灯しています。
3月24日、地域の住民200人ほどがアブチラガマに避難。
首里陥落が迫り、前線が本島南部へと移った4月28日頃、糸数アブチラガマは、南風原陸軍病院の分院として機能するようになり、5月1日には大城知善(おおしろちぜん)先生に引率されたひめゆり学徒隊が入壕。
当時は270mの鍾乳洞内を600人以上の負傷兵が埋め尽くし、壮絶な状況となっていました(5月中旬頃から重傷患者の傷は悪化し、膿とうじだらけになり、脳症患者、破傷風患者が増加)。
洞窟内は、脳症患者、破傷風患者、手術室、治療室、病棟、便所、発電機、食料・衣服倉庫、かまど、住民居住区、家畜飼育所などに分けられ、洞窟全体がひとつの町のような状態になっていました。
しかも軍人は一番奥の安全な場所を確保し、住民は危険な(現在の)出入口付近を利用せざるを得なかったなど、軍部優先の姿勢がこの壕からもよくわかります。
昭和20年5月25日の南部搬退命令により病院、軍隊が搬退した後は、ひめゆり学徒隊はさらに南部の前線へと転戦し(伊原糸数分室壕・第一外科壕へ移動)、荒崎海岸などで悲惨な最後を遂げているのです。
撤退にあたり、自力で歩行できない傷病兵には毒を盛り、あるいは置き去りにされましたが(糧秣監視兵4名が残存)、それでも生き延びた敗残兵や住民は8月まで洞内に潜んでいました(昭和20年6月23日、司令官牛島満中将、摩⽂仁で⾃決し、日本軍の組織的戦闘は終結、ただし「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」という最終命令を出して自決のため、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民が戦闘に巻き込まれることに)。
糸数アブチラガマでも、一般住民も、アメリカ軍の投降の呼びかけに応じれば敗残兵から殺されるという恐怖から、投降することもできなかったため(沖縄県も皇民化教育、軍事教育が徹底し、投降することは恥だと教えられていました)、投降の勧告を受けても外に出ることはありませんでした。
6月8日、アメリカ軍は、最初に空気穴に⻩燐弾(燐の空気に触れると⾃然発⽕する性質を利⽤した爆弾)を投げ込むという作戦に出ています(6月23日、沖縄戦終結)。
そうした激しい攻撃をなんとか逃れた避難住民と、敗残兵は終戦(昭和20年8月15日)後の8月22日にようやく投降しています。
入壕には事前予約が必要で(糸数アブチラガマ専属ガイド同伴での入壕が必要)、運動靴(または雨靴)、手袋、ヘルメット、懐中電灯の用意を。
壕内撮影は禁止です。
糸数アブチラガマ案内センターに申し込みを。
近くには玉城按司の三男の糸数按司の居城で、南部最大のグスクである糸数城(いとかずぐすく)もあるので、時間があれば合わせて見学を(素晴らしい城壁があり、被写体にも最適)。
糸数アブチラガマ | |
名称 | 糸数アブチラガマ/いとかずあぶちらがま |
所在地 | 沖縄県南城市玉城糸数667-1 |
関連HP | 糸数アブチラガマ公式ホームページ |
ドライブで | 那覇空港から約17km |
駐車場 | あり/無料 |
問い合わせ | 糸数アブチラガマ案内センター TEL:098-852-6608/FAX:098-852-6466 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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