宮城県境に近い岩手県一関市真柴地区、かつて東北を縦貫した奥州街道の街道沿いにあった村が鬼死骸村です。2016年までは鬼死骸停留所というバス停もありましたが、バス路線が廃止された後も、地元の有志がつくる真柴まちづくり協議会が、地域活性に活用しようと保存、珍地名の歴史を今に伝えています。
坂上田村麻呂伝説で生まれた不思議な地名
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代初期の延暦16年11月5日(797年11月27日)、征夷大将軍となって蝦夷(えみし)征討などに携わっていますが、延暦20年2月14日(801年3月31日)、平安京から大軍を率いて出兵し、蝦夷征討を果たし、拠点として現在の岩手県奥州市に胆沢城(いさわのき)を築城しています。
蝦夷討伐の過程で抵抗した大武丸(おおたけまる=岩手山を拠点とした蝦夷の将)を討ち取った際、その首が飛んだ地、あるいは亡骸を埋葬した地と伝えられ、以降、鬼死骸と呼ばれるようになったとされています。
大武丸の存在を含め、あくまで伝承にすぎませんが、蝦夷との戦闘が激しかった地で、その将(鬼)を葬った場所なのかもしれません。
実際に、鬼死骸も明治8年、牧沢村と合併して真柴村が生まれるまで、村名となっていました。
真柴村などが合併して明治22年に発足した真滝村の村史にも「往古、吾勝郷桜野壮ト云ヒ、延暦20年、坂上田村麻呂、大武丸ノ賊従ヲ退治シ、其死骸ヲ埋メ置キタル。ヨク鬼死骸トイフ」と記されているので、地元では明治時代から大武丸の死骸を埋めたのが地名の由来としていることがわかります。
この話には、首が埋められたのは鬼首温泉(おにこうべおんせん/宮城県大崎市)というオチまで付いています。
田んぼの中にある鬼石は、大武丸の亡骸を埋めた上に置かれた石とされ、坂上田村麻呂が平安を祈願して勧請したという鹿嶋神社が鎮座するなど、伝説を証明するような遺構も残されています(ただし、坂上田村麻呂伝説は近世の創作とも)。
『鬼滅の刃』ブームでこの珍地名が注目されたこともあって、かつての栗原市民バス「一関線」待合所(2016年3月31日に路線に変更でバス停廃止)も休憩所に変貌し、村名の由来などが書かれた説明板、文化15年(1818年)作成の『鬼死骸村絵図』のパネルなどが設置されています。
バス停には関連名所などへの距離を明記し、観光案内に一役かっています。
取材班が選んだ珍地名(6)鬼死骸 | |
名称 | 鬼死骸/おにしがい |
所在地 | 岩手県一関市真柴祈祷 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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