旧国名でいえば、北部の飛騨国(ひだのくに)と南部の美濃国(みののくに)に分かれ、細分化すると西濃、岐阜、中濃、東濃、飛騨の5地域に区分けされています。県名の岐阜は、県都の岐阜の名を採用。その岐阜は、「天下布武」(てんかふぶ)を掲げた織田信長が付けた城下町の名です。
信長は稲葉山城を攻略、城下町の井ノ口を岐阜と改称
織田信長が稲葉山城の戦い(1567年)で稲葉山城(現・金華山の岐阜城)で、斎藤龍興(さいとうたつおき=織田信長の正室・濃姫の甥)を倒した後、城下町の井ノ口を岐阜と改め、さらに稲葉山城を大改築して岐阜城に、山麓に自らの居館を築いています。
「天下布武」の朱印を用い始めたことから、本格的に岐阜を起点に天下統一を目指しただろうことがわかります。
織田信長は織田信秀の嫡男として、尾張国(愛知県)の勝幡城(しょばたじょう/現・愛西市)で生誕(生誕地に関しては諸説あります)。
その後、那古野城(なごやじょう=後の名古屋城)を居城にしていますが、肥沃(ひよく)な濃尾平野(尾張国と美濃国)を支配するために、清洲城(清須市)に拠点を移し、さらに木曽川を渡って美濃進出を目指します。
上洛を目指す信長にとって、稲葉山城の対立する斎藤氏は障害となるので、ここを攻略することで濃尾平野全体を掌握できることになり、豊かな平野を得ることで財力を蓄えることができるようになったのです。
さらに美濃国は日本のほぼ中心。
飛騨、木曽からの物流の拠点で、ここを抑えることは地勢的にも重要だったのです。
実は禅僧・沢彦宗恩のアドバイスで、その思想が息づく
稲葉山城の城下町・井ノ口を岐阜と命名した信長。
「天下布武」掲げようとする信長は、その起点となる地に、縁起のいい地名を考え、尾張国の政秀寺の臨済宗僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん=幼少時代から信長の教育係で、相談相手)が進言した「岐山・岐陽・岐阜」の3つのうちから選んだもの。
中国・周の文王(ぶんおう=紀元前12世紀〜紀元前11世紀)が天下統一を果たす足がかりとなっ「岐山」(きざん=(現・陝西省宝鶏市岐山県)と「曲阜」(きょくふ)を組み合わせたのが岐阜です。
中国史にも精通する宗恩は、「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という故事から「岐山」を候補にし、山よりは低い丘(阜=小高い丘、豊かという意味も)のほうがいいだろうということで「岐阜」も候補にしたのです。
沢彦宗恩は、信長の元服の儀の頃から、信長の父、信秀から教育係を指名され、信長という名も、実は宗恩の命名。
名前にも「日の本の天下人に」という思いが込められ、その宗恩の考えは城下町「岐阜」と旗印「天下布武」により、鮮明となったのです。
「天下布武」は武力で天下を取ると解釈する人もいますが、『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん=孔子が編纂したという『春秋』の解釈書)に記された「武の七つの目的を備えた者が天下を治めるにふさわしい」に由来します。
武の七つの目的とは、暴を禁じる、戦を止める、大を保つ、功を定める、民を安んじる、衆を和す、財を豊かにするなので、むしろ天下泰平後の平和宣言のような感じです。
まさに「天下泰平の世を創る」拠点とした町が、岐阜ということに。
全国の地名、県名の中で、戦国武将の天下統一に関わる名は、この岐阜しかありません。
【県名の由来】岐阜の名は織田信長が命名 | |
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