烏帽子形城

烏帽子形城

大阪府河内長野市の烏帽子形山にある中世の山城跡が烏帽子形城(えぼしがたじょう)。南北朝時代に後醍醐天皇を奉じた楠木正成(くすのき まさしげ)が築城した楠木七城のひとつと伝えられます(上赤坂城の支城)。国の史跡となった城跡一帯は、烏帽子形公園として整備され、複合遊具などが配されています。

畿内の政治・軍事情勢を反映した攻防戦が展開

河内(かわち)守護職の畠山氏の居城でしたが、応仁の乱前後から戦国時代に至るまで、攻防戦の続く城になっています。
文献に登場する最初は、文正元年(1466年)に「押子形城」(おしこがたじょう)として。

戦国時代には新興勢力・三好氏の城となり、永禄10年(1567年)には、畠山方が城攻めを行なっていますが、三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が立て籠もって撃退するなど、畠山氏、三好氏の攻防の地となっています。
織田信長の領有下になっても、金剛寺に対する拠点の城として機能し、岸和田城主・中村一氏(なかむらかずうじ=山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いの武功で、岸和田城主に、後に生駒親正、堀尾吉晴とともに豊臣政権の三中老のひとりに出世)の支城となった天正12年(1584年)には豊臣秀吉の命により紀州攻め、根来寺(ねごろじ)攻略の拠点にもなっています。

宣教師フロイスや巡察師ヴァリニャーノが訪れた記録があり、ルイス・フロイスの『日本史』などによれば、中村一氏領有の天正10年(1582年)頃には、伊智地文太夫が城代となり、城下ではキリスト教が奨励され、キリスト教布教の拠点にもなっていたのだとか。
元和3年(1617年)に廃城に。

城の規模は,南北140m,東西160mで、山上に主郭(しゅかく)となる曲輪(くるわ)があり、曲輪を土塁と空壕で囲む構造。
烏帽子山山上にある曲輪まで、空壕を利用した遊歩道で到達できます。
本丸広場までは徒歩10分ほどで到達。

中世の楠木正成の支城というのはあくまで伝承で、現存する空壕などの遺構は、天正12年(1584年)に中村一氏が整備したもの。
曲輪から柱を立てる礎石や瓦が発掘されていることから、多聞櫓(たもんやぐら)などが備わっていたとも推測されています。

烏帽子山の東麓には京・堺と紀伊とを結ぶ高野街道(こうやかいどう)が通り、烏帽子形八幡神社が鎮座しています(本殿は国の重要文化財)。

観心寺、金剛寺、烏帽子形八幡神社、長野神社などとともに日本遺産「中世に出逢えるまち~千年にわたり護られてきた中世文化遺産の宝庫~」の構成資産にもなっています。

烏帽子形城
名称 烏帽子形城/えぼしがたじょう
所在地 大阪府河内長野市喜多町725-1
関連HP 河内長野市観光協会公式ホームページ
ドライブで 阪和自動車道美原南ICから約13km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 河内長野市観光協会 TEL:0721-55-0100
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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