上宮天満宮

上宮天満宮

大阪府高槻市天神町にある「北山の天神さん」とも称される神社が、上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)。正暦4年(993年)の創建という菅原道真を祀る天満宮としても太宰府天満宮に次ぐ、歴史を誇っています。天正10年(1582年)、山崎の戦いの際には、羽柴秀吉が参道の「天神馬場」に本陣を置いています。

太宰府天満宮に次ぐ古い歴史を誇る天満宮

正暦4年(993年)に九州・大宰府に赴いた勅使・菅原為理が、大宰府の菅原道真の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝えた後、京に戻る途中、この地で急に牛車が動かなくなりました。
この地に菅原道真の祖先とされる野見宿禰(のみのすくね=古墳時代の出雲国出身の豪族)の祖廟(野身神社)があることを知り、菅原道真を祀ったのが始まりと伝えられます。

織田信長は芥川山城攻めの際、天神馬場に陣を構え、見事に芥川山城を攻略していますが、羽柴秀吉も山崎の戦いの前夜、天神馬場に陣を構えたと伝えられています。

割拝殿(西拝殿・東拝殿)は、 明暦2年(1656年)、大坂城普請をも務めた高槻藩主・永井直清(ながいなおきよ)の寄進。

徳川幕府は、慶安2年(1649年)、京阪間の交通の要所である高槻に永井直清(京都所司代、大坂城代の代行役)を配し、西国の支配を固めました。
永井直清は、番田の井路開削などの治水事業、城下町整備などを行なっていますが、その鎮守的な意味合いを込めて、拝殿や灯籠を寄進したのだと推測できます。

豊臣秀頼寄進という本殿は、平成8年に焼失、現在は日本で初という竹製の本殿に再建されています。
本殿脇の灯籠は、鎌倉時代の作とされ、重要美術品になっています。

摂社の野身神社は、平安時代に編纂された『延喜式神名帳』に「摂津国島上郡 野身神社」と記載される社に比定され、野見宿禰の墓という伝承のある古墳の上に鎮座しています。
勅使・菅原為理の伝承が事実とすれば、野身神社のあった地に、天満宮を創建したということに。

毎年2月25日と26日に、例祭『初天神』が執り行なわれています。

山崎の戦い前夜、秀吉は富田で軍議を開く

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺で織田信長が討たれると、備中高松城攻めを行なっていた羽柴秀吉は6月3日夜〜6月4日未明にその旨を知ります(明智光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛/『太閤記』)。

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の仲介による備中高松城主・清水宗治の切腹による和議という解決策で、秀吉の「中国大返し」が始まります。
6月6日には早くも姫路城に帰還し(姫路城に帰還した日については諸説あります)、道中行軍の手配を行ない、6月9日に姫路を出立。
明石、兵庫を経て6月11日には尼崎に到着。
6月12日、秀吉軍は尼崎から西国街道を進軍し、富田(大阪府高槻市)に着陣。
富田で山崎が主戦場と想定して軍議を開いています。

秀吉が諸将を加えながら進軍し、計4万人という兵力だったのに対し、明智光秀軍1万6000人ほど。
明らかな戦力差があったのです。
富田で軍議を開いた際、羽柴秀吉が本陣を置いたのが、上宮天満宮の「天神馬場」だとされています。
6月12日を「天神馬場」で過ごした秀吉は、翌朝、決戦の地・山崎へと向かったのです。

上宮天満宮
名称 上宮天満宮/じょうぐうてんまんぐう
所在地 大阪府高槻市天神町1-15-5
関連HP 上宮天満宮公式ホームページ
電車・バスで JR高槻駅から徒歩6分
ドライブで 新名神高速道路高槻ICから約3km
駐車場 第1・第2駐車場(30台/無料)
問い合わせ 上宮天満宮 TEL:072-682-0025
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
芥川山城

芥川山城

大阪府高槻市の三好山(標高180m)にあった中世の山城の跡が、芥川山城(あくたがわやまじょう)。能勢頼則が永正12年(1515年)頃に築いたとされる城で、北・西・南の三方を芥川で囲まれた天然の要害で保存状態も良く、続日本100名城に選定され

 

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