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臼杵城

臼杵城跡

大分県臼杵市にある続日本100名城に選定される連郭式平山城の跡が臼杵城跡(うすきじょうせき)。現在は臼杵市街地となった丹生島に、戦国時代の永禄5年(1562年)、大友宗麟(おおともそうりん)が築いた海城。大友家の本拠はもともと府内城(現在の大分市)でしたが、湊としても利用価値のある臼杵に城を築いています。

臼杵藩の藩庁として機能した城

臼杵城築城の原因は、永禄5年(1562年)、門司城の戦いで毛利元就に敗れたことというのがこれまでの通説ですが、近年の研究でそれ以前に、新たな経済的な権益を確保するために臼杵に城を築いたのではないかと推測されるようになっています。
遣明船の派遣など、海外貿易を重視した大友宗麟なので、貿易の拠点として、臼杵を重視したのも要因です。

大友宗麟が戦国大名として最盛期を迎えた時代の築城で、当時、大友氏は豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の6ヶ国と日向・伊予の一部を支配する大大名になっていました。
しかし、天正6年(1578年)、日向に出兵して島津義久・義弘・家久の連合軍に大敗。
天正14年(1586年)、島津の大軍によって中世城郭としての臼杵城は落城となっています。

関ヶ原の合戦直後の慶長5年(1600年)、 稲葉貞通(いなばさだみち)が美濃国・郡上八幡城から5万石で入封、以降明治維新まで稲葉氏15代の居城となり、臼杵藩の藩庁として機能しました。

3重4階の天守を備えていたと推測され、天守台跡石垣が現存しています。

明治6年に一部の櫓を除いた主要な城郭が取り壊され、畳櫓、卯寅口門脇櫓の2つの櫓を除いて現存する建築物はありません。
明治10年の西南戦争では、臼杵士族隊と西郷隆盛軍の間で臼杵城攻防戦が行なわれていますが、臼杵城は1日で落城。

本丸跡と二の丸跡が臼杵公園となり、その間には深い空堀と石垣があります。
二の丸跡南西隅には、畳櫓、本丸跡南東隅に卯寅口門脇櫓が現存。
二の丸大門櫓は、平成13年の再建。
また丑寅稲荷神社は、城の鬼門を護るため大友宗麟が築城に際して創建した神社です。

大分県内にある「日本100名城」選定の城は大分府内城(大分市)と岡城(竹田市)、「続日本100名城」選定は中津城(中津市)、角牟礼城(玖珠町)、佐伯城(佐伯市)と臼杵城です。

臼杵城
名称 臼杵城/うすきじょう
所在地 大分県臼杵市臼杵91
関連HP 臼杵市観光情報協会ホームページ
電車・バスで JR臼杵駅から徒歩10分
ドライブで 東九州自動車道臼杵ICから約3.4kmで市営下屋敷前駐車場
駐車場 市営下屋敷前駐車場(45台/30分まで無料、以降有料)
問い合わせ 臼杵市産業観光課 TEL:0972-63-1111
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

佐伯城

大分県佐伯市の南西、標高144mの城山に、慶長11年(1606年)、築城の名人・毛利高政(もうりたかまさ)が築いたと伝わる平山城の城が佐伯城跡(さいきじょうせき)。舞鶴のような姿から「鶴屋城」との別名を有しています。江戸時代には佐伯藩の藩庁

府内城(大分城址公園)

1597(慶長2)年、石田三成の妹婿・福原直高により、12万石の居城として築かれた平城が府内城で府内城跡は大分城址公園として整備されています。現在は文化会館がある大分城址公園は、天守のそびえた本丸周辺の水堀を埋めて整備されたもの。その北西側

岡城

岡城は、竹田市街の東2kmにあり、1185(文治元)年、緒方惟栄(おがたこれよし)が源義経を迎えるために築城したと伝わる、平山城の跡。標高325m、周囲は2つの川にはさまれ、阿蘇山の火砕流で形成された断崖絶壁に建っているため、難攻不落の名城

飫肥城

飫肥院の跡とも伝わる飫肥城(おびじょう)はいつ頃の築城は定かではないが、1587(天正15)年に豊臣秀吉に仕えた伊東祐兵(いとうすけたけ)が九州征伐の戦で戦功を認められ秀吉から賜り、以降280年あまり飫肥藩伊東氏5万1000石の居城となりま

中津城

天正16年(1588年)、築城の名手・黒田孝高(くろだよしたか=黒田如水・黒田官兵衛)によって築かれ、細川忠興が完成させた平城。中津川(山国川)と大家川に挟まれた、河口の中洲に位置し、北は周防灘に面していることから、堀には海水を引き入れてお

角牟礼城

大分県玖珠町(くすまち)の角埋山(つのむれやま)にあった中世の山城跡で国の史跡にもなっているのが定かではないが角牟礼城跡(つのむれじょうせき)。鎌倉時代の弘安年間(1278年〜1288年)に森朝通によって築かれと伝えられ、戦国時代は難攻不落

臼杵城・大門櫓

大分県臼杵市にある臼杵城の二の丸の正門が、大門櫓。現在は埋立により臼杵市街地となった丹生島(にゅうじま)に、永禄5年(1562年)、大友宗麟(おおともそうりん)が築いた海城が臼杵城。畳櫓、卯寅口門脇櫓は往時のままに現存していますが、大門櫓は

臼杵城・畳櫓

大分県臼杵市にある臼杵城に現存する往時の櫓のひとつが、畳櫓。江戸時代の臼杵城は本丸、二の丸の周囲は海で、陸側の三の丸とは今橋と古橋で連絡されていました。古橋口から二の丸へと登城道・鐙坂(あぶみざか)を上ると畳櫓が建っています。往時には中門櫓

臼杵城・卯寅口門脇櫓

大分県臼杵市にある臼杵城に現存する往時の櫓のひとつが、卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)。本丸奥に鎮座する卯寅稲荷神社近くに建つ二重櫓で、卯寅口を見下ろす監視櫓。卯寅口は城の搦手(からめて=裏門)にあたり、緊急時には、卯寅口から船を出

臼杵城・大友砲(国崩し)

大分県臼杵市にある臼杵城の二の丸跡に設置されるのが、大友砲(国崩し)。天正4年(1576年)、大友宗麟(おおともそうりん)が、ポルトガル人宣教師たちから火縄銃とともに購入し、臼杵城に設置された佛狼機砲(フランキ砲)のレプリカで、日本で最初の

二王座歴史の道

大分県臼杵市(うすきし)、臼杵城下町の中心部にあり、上級武士らの住まいがあった場所が、二王座(におざ)。周辺は寺町で、祇園社の仁王門があったことからこの名があり、通りには石畳が敷き詰められています。二王座歴史の道は、白壁の建物や寺院が坂道沿

久家の大蔵

大分県臼杵市(うすきし)、臼杵城下にある慶応4年(1868年)築という江戸時代末期の蔵が、久家の大蔵(くげのおおくら)。臼杵の造り酒屋で「一の井手」の蔵元、久家本店が貯蔵庫として利用していたものを再生し、ギャラリーとして使われています。外壁

旧臼杵藩主稲葉家下屋敷

大分県臼杵市にある廃藩置県に伴って東京へ移住した旧藩主・稲葉家の臼杵滞在所として建築された建物が、旧臼杵藩主稲葉家下屋敷。豊後臼杵藩5万石の藩主だった稲葉家。明治4年の廃藩置県の後、稲葉家は東京に住まいを移しますが、その里帰り用の邸宅として

大分県六大名城とは!?

大分県内で日本100名城に選定されるのは、大分府内城(大分市)、岡城(竹田市)の2城、続日本100名城に選定が中津城(中津市)、角牟礼城(つのむれじょう/玖珠町)、臼杵城(うすきじょう/臼杵市)、佐伯城(さいきじょう/佐伯市)で、以上が大分

 

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