大分県別府市、別府八湯のひとつ鉄輪温泉(かんなわおんせん)の共同浴場「渋の湯」、温泉のルーツとされる蒸し湯が楽しめる「鉄輪むし湯」前に立つのが、一遍湯かけ上人(いっぺんゆかけしょうにん)。実は鉄輪温泉の蒸し湯を創始したのは一遍上人といわれているのです。
鉄輪温泉の「むし湯」を創案した一遍を今に伝える像
「一遍湯かけ上人」の一遍とは、鎌倉時代に時宗を開いた一遍のこと。
鎌倉時代の延応元年(1239年)、伊予国久米郡(現在の愛媛県松山市にある宝厳寺の一角)に生まれた一遍は、文永11年(1274年)に遊行を開始、熊野に参籠し霊験を得て、念仏さえ唱えれば誰でも往生できると説き(時宗開宗)、建治2年(1276年)に九州各地を念仏勧進しています。
その途中で、別府を訪れた際、別府で地獄の湯煙に苦しむ人々のために祈願し、霊験の湯を発見。
ここに温浴施設、今でいう蒸し湯を築いたと伝わっているのです。
奈良時代初期に編纂された『豊後風土記』(ぶんごのくにふどき)にも、温泉利用に関しては、赤湯(血の池地獄)の泥を「用ゐて屋の柱を塗るに足る」と記されている程度で、地獄地帯と認識されていたことがわかります。
一遍は、道後温泉奥谷の松山の豪族・河野通広(かわのみちひろ)の家に生まれていますが、道後温泉は8世紀から温泉場として利用され、天皇も行幸している有名温泉地だったので、温泉の利用法、効能には精通していたのだと推測できます。
それまでは地獄と認識されていた高温の温泉をサウナとして利用を思いつたのが一遍上人(ただし、中世以前に温泉は蒸し湯として普遍的に利用されていた可能性も大です)。
現在も営業を続ける「鉄輪むし湯」のルーツで、これ別府温泉における湯治場・鉄輪の起源はもとより、別府の温泉利用のルーツとなっているのです。
鉄輪温泉にある永福寺(廃仏毀釈で湯滝山松寿寺が廃寺になった後、明治24年に復興)は、建治2年(1276年)、一遍上人の開基と伝えられ、寺宝に南北朝時代作と推定される国の重要文化財『紙本著色遊行上人絵伝』(しほんちゃくしょくゆぎょうしょうにんえでん)があり、一遍伝承を裏付けています(『遊行上人絵巻』では、大友頼泰が一遍に帰依したとあります)。
永福寺の前身となる寺が、湯滝山松寿寺(神仏習合時代には温泉神社を統括)で、この松寿という寺名は一遍の幼名・松寿丸に由来したと推測できます。
『一遍上人年譜略』にも「鶴見嶽のかたわらに温泉あり、これ熊野権現方便の湯なり」と記されています。
一遍が九州を念仏勧進した頃、別府は鶴見山の山岳信仰の拠点となる鶴見権現が知られ、天台宗が栄えていたので、温泉に興味のあった一遍はあえて、別府を訪れたのかもしれません。
地元で一遍上人は、鉄輪の地獄を鎮め、湯治場発展の歴史を作った恩人として、今も親しまれています。
「一遍湯かけ上人」の像は、自分の体で悪い部分や治したい部分があればその部分に湯を掛けるというのが習わし。
一遍湯かけ上人 | |
名称 | 一遍湯かけ上人/いっぺんゆかけしょうにん |
所在地 | 大分県別府市風呂本 |
電車・バスで | JR別府駅から亀の井バス鉄輪方面行きで30分、鉄輪温泉下車、徒歩3分 |
ドライブで | 東九州自動車道別府ICから約4km |
駐車場 | 大谷公園駐車場(26台)を利用 |
問い合わせ | 別府駅案内所 TEL:0977-24-2838 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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