江戸時代に「伊勢参りの禊(みそぎ)の三社参り」といわれ、伊勢神宮参拝後に東国三社を巡拝する 『下三宮参り』が隆盛しました。なぜ、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社を巡るのか・・・。実は、ヤマト王権東征の古代史、さらには国譲り神話にもつながる東国屈指の3社の歴史とパワーがその背景には・・・。
利根川の乗合船を使って三社を巡る
TOPの画像は、幕末の嘉永6年(1853年)刊行、歌川広重が全国各国の名所を1ヶ所ずつ描いた『六十余州名所図会』で、常陸国(現・茨城県)代表の鹿嶋太神宮。
大船津に立つ一の鳥居の周辺には参詣者を乗せた船も描かれています。
利根川の舟運を利用して、江戸時代には、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市/常陸国一之宮)、香取神宮(千葉県香取市/下総国一之宮)、息栖神社(茨城県神栖市)を巡る東国三社参りが隆盛しました。
三社を参拝すると伊勢神宮に一度参拝したのと同じご利益が授かると信仰されていたのです。
しかも鹿島神宮、香取神宮は、明治以前には伊勢、香取、鹿島のみが神宮を名乗ることができたという名社です。
香取神宮に至っては、元旦に天皇が諸国の神社や天皇陵を遥拝する四方拝(しほうはい)の一社にもなっているのです。
幕末の水戸藩の儒臣・藤田東湖(ふじたとうこ)の著書『常陸帯』には、「香取より船に乗りて、息栖(いきす)の明神へ参る、これは鹿島の別所なり、是より鹿島の大船津へ打渡りて見れば、一の鳥居海の中へさし出て、いと高やかに作れり、二の鳥居まで十八町が間、爪先上りに登る」と記され、香取神宮〜息栖神社〜鹿島神宮と船で巡っていたことがわかります。
木下河岸(きおろしがし=利根川南岸、現・千葉県印西市木下にあった川湊)を起点に参詣する人々を乗せて利根川を上下したのが東国三社参りの遊覧船「木下茶船」(きおろしちゃぶね)です。
江戸時代初期の寛文年間(1661年〜1673年)頃に運航が始まり、8人乗りで、5人集まれば出船。
船中を寝食の場としました(夜行便で夜出航し夜戻るのが一般的)。
行程は、江戸小網町~(夜船)~行徳河岸~(木下街道)~木下河岸~(夜船=木下茶船)~津宮河岸・香取神宮~(船)~松岸河岸~(徒歩)~飯沼観音~(徒歩)~銚子磯めぐり(徒歩)~息栖神社~(徒歩)~鹿島神宮~(船)~潮来~(夜船=木下茶船)~木下河岸~(船)~行徳河岸~(木下街道)~江戸小網町といった感じです。
オプショナルツアー的に、犬岩などを見物する「銚子磯めぐり」が組み込まれていた点にも注目を。
参詣に託(かこつ)けて、物見遊山的な意味合いも強かったことがよくわかります。
「東国三社」と呼ばれるのにはワケがある!
三つの神社が「東国三社」と呼ばれるのは、それぞれに祭られる武甕槌大神(たけみかづちのおおみかみ/鹿島神宮)、経津主神(ふつぬしのかみ/香取神宮)、天鳥船神(あめのとりふねのかみ/息栖神社)の三柱の神が、天照大神に天界から派遣されて、地上を譲るように迫った「国譲り」神話に由来しています。
古代には、ヤマト王権の北辺で、東国開拓の拠点だった地だったことが関係しています。
東北に君臨した蝦夷(えみし=大和朝廷に服属しなかった東北を領有した民)の征討するための最前線に位置し、その平定を目的に創建されたと推測できます。
息栖神社の祭神・久那戸神(くなどのかみ)は、鹿島神・香取神による葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)で、東国への先導にあたった神だとされています。
鹿島神宮と香取神宮間は12km、 鹿島神宮と息栖神社間は9km、息栖神社と香取神宮間は8.6kmと形の直角二等辺三角形を形成。
夏至の日の太陽の通り道が、鹿島神宮東の一の鳥居ー富士山ー伊勢神宮ー高千穂が一直線に結ばれます。
さらに、東国三社の要である鹿島神宮の真東には、国譲り神話で鹿島神(武甕槌大神)と、力比べをした出雲神・建御名方神 (たけみなかたのかみ)を祀る諏訪大社があるもの偶然を超える不思議な力を感じます。
古代、ヤマト王権の最前線は、出雲王権にも睨みをきかせていたのかもしれません。
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