大姓43位の福田さんは、全国32万人ほど暮らしていて、シエアは0.25%ほど。福田という苗字は、もともとは開墾の難しい「深田」を良田にしたいという願いから「福」という文字を使ったもの。そんなお目出度い名前だからか総理大臣がふたりも輩出できたのかもしれません。
まずは群馬と埼玉の福田さんのルーツへ
総理大臣を務めた福田赳夫・福田康夫親子は、群馬県高崎市出身。
実は、この上州(群馬)を含め、関東には、とくに北関東には平将門(たいらのまさかど)を倒した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを継ぐ福田氏が多いのが特長。
武蔵国の北端を中心に、秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた武蔵七党最大の藤原秀郷流児玉党の福田氏は、古河公方(こがくぼう)足利氏に仕え、古河公方御料所(直轄地)の代官を務めていたのだとか。
その後、豊臣家の家臣、福田惟康(ふくだこれやす)が関ヶ原合戦後に武蔵国に土着し、福田陣屋と呼ばれる屋敷(埼玉県さいたま市西区高木町)を構えています。
福田陣屋跡は、さいたま市にある埼玉栄高校の北東500m、指扇中学校西側の福田稲荷神社あたり。現在は福田稲荷ふるさとの森となっている一帯で、敷地は福田さんの私有地だとか。
近くには福田歯科もあって、まさに一帯は福田さんの大切なルーツの地となっています。
高崎市の倉賀野城は福田加賀守が守備
上野国の福田氏は、関東管領山内上杉氏の家臣で「倉賀野十六騎」の福田加賀守として倉賀野城(くらがのじょう/群馬県高崎市倉賀野町)を守備しています。
倉賀野は西上野と北武蔵の境で、近世には中山道が通る交通の要衝です。
群馬県出身の福田赳夫・福田康夫元首相はこの流れとのこと。
同じ上野国には源頼義流の福田氏もいて、まさに北関東は福田さんの重要なルーツになっているのです。
倉賀野城は烏川左岸の河岸段丘上に位置していますが、現在では国道17号が東西に貫通。
住宅街の片隅、雁児童公園の一角に城跡の碑が立ち、二の丸跡に井戸八幡(群馬県高崎市倉賀野町1437)が鎮座しています。
井戸八幡の祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと=武神の八幡大菩薩)。
富山県や兵庫県にも福田さんのルーツが
一方、藤原は藤原でも、越中国砺波(となみ)郡福田(現・高岡市福田)を発祥とする福田氏は藤原秀郷ではなく、藤原利仁(ふじわらのとしひと=芥川龍之介の小説『芋粥』にも登場)流。
富山県高岡市和田954にある荊波神社(うばらじんじゃ)は、旧福田郷の総社(十禅師大明神)といい、北陸の福田さんの氏神的な存在になっています。
荊波神社は、平安中期編纂の『延喜式』記載の式内社で、鎌倉時代以降は、比叡山妙法院の管轄となった福田郷惣社「十禅師大明神」。
その境内には、越中国の国司として赴任した大伴家持が詠んだ「夜夫奈美(やぶなみ)の里に宿借り春雨 隠(こも)りつつむと妹に告げつや」の歌碑も立っています。
兵庫県にも福田さんのルーツが
播磨国(兵庫県南部)には播磨国加東郡福田(兵庫県加東市)を発祥とする赤松氏族の福田氏がいます。
赤松盛家の子・赤松景行が福田氏を名乗ったのが始まり。
加東市立福田小学校の周辺にはため池が数多く、開墾の難しい「深田」から福田になったことをイメージできる地になっています。
兵庫県相生市矢野町真広丙西山の福田山城は、赤松氏一族の福田景行が建武年間(1334年〜1336年)に築城したと伝承される城ですが、一帯は姫路相生カントリークラブになっていて立ち入りはできません。
九州・長崎には南蛮貿易で栄えた福田さんが
目を九州に転じると、肥前国を発祥とする平姓(へいし)隈氏族の福田氏がいます。
肥前国福田氏の始まりは、歌人(三十六歌仙の一人)である平兼盛(たいらのかねもり)の子孫が平安時代半ばに九州の肥前国彼杵(そのき)郡福田(長崎県長崎市福田本町)を領してその地名を姓としたことに始まります。
戦国武将の福田兼次(ふくだかねつぐ)は、洗礼名「ジョーチ」をもつキリシタン。
戦国大名・大村純忠の重臣です。
その子・福田忠兼(ふくだただかね)は、南蛮貿易港の福田港を開港、教会を建設するなど、歴史にその名を残しています。
永禄年間(1558年〜1570年)に福田城下には1000人を超えるキリシタンが暮らすほど、繁栄していましたが、後に長崎港が開かれると、福田港は衰退していきます。
天正年間(1573年〜1592年)、福田忠兼は眼下に福田港を見下ろす山上に福田城を築城し、福田氏は広く九州に栄えています。
福田港の北にそびえる福田城の主郭は、標高74mの高台に鎮座する祐徳稲荷神社の境内あたり。
かつては湊を見下ろす山頂に主郭(30m×20m)があり、湊に面した大手口には堀切らしきものが残されています。
青森県南部町にも福田館の遺構が
東北地方、陸前国や陸奥国にも福田氏の足跡が残されています。
青森県三戸郡南部町福田舘30に福田館跡として瑞泉寺が残されています。
東西170m、南北230mという中世の館跡で、現在でも二重の堀が現存。
瑞泉寺北側の馬淵川沿いに内堀(一番堀)、西側に内堀と外堀(二番堀)が確認できます。
天正年間(1573年〜1592年)に福田掃部が南部信直から1000石を拝領。
さらに元和4年(1618年)、福田治郎が500石を拝領していますが、三戸の南部氏が盛岡に移った際に、福田氏もそれに従って盛岡城下に移っています。
住所がそのまま福田舘という字名なのがいかにも福田さんのルーツといった感じです。
広島県の福田さんのルーツはかなり重要な地
西日本では、備後国の福田氏、因幡国の福田氏、北九州で筑前・筑後国の福田氏なども知られています。
備後国の利鎌山城(とかまやまじょう/広島県福山市芦田町福田=亀山八幡神社南側)は、南北朝時代の延文元年・正平11年(1356年)、福田盛次によって築かれたと伝えられ、湊川合戦の功により、足利尊氏に備後の福田庄を与えられ、福田氏を名乗ったことに始まります。
利鎌山城(本丸で標高206.6m)は登山口の木野山神社から中津川浄水場までは車道が整備されていますが、以後は登山に。
城跡の北麓の福田地(ふくでんじ)には、城主・福田氏の菩提寺と伝わる福性院福田寺(広島県福山市芦田町大字福田2689)があり、ここも福田さんの重要なルーツ。
寺伝によると貞観元年(859年)、行教(伝燈大法師)が開基という古刹。
行教は九州からの帰途、芦田の地に宇佐八幡を勧請、その別当寺として能面山霊光寺を創設、十一面観音を安置したとのこと。
その後、寺運は衰退しましたが、室町時代、福田盛雅(ふくだもりまさ)が再興、福田寺と改めています。
その本尊は33年ごとに開扉される秘仏。
享保10年(1725年)銘の銅鐘(現存していません)に、「中世、福田遠江守盛雅、武門の擁護を託し、廃址を披く」と刻まれていたという。まさに広島周辺の福田さんの重要なルーツ。
福田の八幡神社(亀山八幡宮)も福田氏ゆかりの社。
利鎌山城主・福田盛雅が祠を亀山に遷したとのこと。
福田さんは、栃木県など北関東に多い
福田さんは、栃木県(大姓7位)に多く、栃木県日光市に集中しています。
芸能人でいえばU字工事の福田薫(ふくだかおる)は、栃木県那須郡西那須野町(現・那須塩原市)出身。
栃木県知事だった福田富一も栃木県今市市(現・日光市)の出身で、福田さんの多い土地を裏付けています。
山陰地方にも多い名前で鳥取県で大姓11位、九州北部では長崎県で大姓15位となっています。
家紋は、五本骨扇や羽団扇(はうちわ)。
ほかに、左二つ巴、裏梅。梅鉢、二つ引両、万字、下り藤など。
福田赳夫・福田康夫元首相親子は、やはり羽団扇です。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
福田さんのルーツを探せ! | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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