太田さんのルーツを探せ!

鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)に、鎌倉に残る唯一の尼寺として知られている英勝寺がある。
徳川家康の側室で、春日の局(かすがのつぼね)以上に権勢を誇った英勝院(お勝の方)を開基とする英勝寺は、珍しい袴腰付の鐘楼、華麗な色彩を持つ祠堂(しどう)、精巧な細工が見られる唐門など、江戸初期の名建築が素晴らしい。

寛永11年(1634年)、英勝院は自身の先祖の地であるこの扇ガ谷を3代将軍・徳川家光から貰い受けて英勝寺を開いたのだが、英勝院の先祖である太田道灌(おおたどうかん)は江戸に築城するまでここに居住し、扇谷こそ太田家栄華の始まりの地であったのだ。

まずは太田道灌のルーツから

源頼朝に先んじて、以仁王(もちひとおう)と結んで平氏打倒の挙兵を計画した源三位頼政(げんさんみよりまさ)の子孫である太田道灌資長(すけなが)や英勝院の家系を少し遡ってみよう。
──清和源氏頼光流の源三位頼政の孫隆綱が、鎌倉幕府から丹波国桑田郡五箇荘を与えられ、その孫の資国(すけくに)が桑田郡太田郷(現在の京都府亀岡市)に移り太田氏を名乗ったという。
太田資国は丹波国上杉郷の地頭・上杉重房に仕え、建長4年(1252年)、親王将軍宗尊の東下の際に鎌倉に下向し、室町時代には扇谷の上杉氏に仕えた。
太田氏は扇谷上杉家の家宰の家柄で、相模守護代を務めた太田資清(おおたすけきよ)などを輩出。その資清の子が資長(太田道灌)となる。

英勝寺の通用門の門扉には徳川家の葵紋と、その中心に太田家の桔梗紋が配され、仏殿の天井などにも葵紋と桔梗紋が見られる。英勝院を祀る祠堂前のワビスケがいかにも尼寺らしい小さく清楚なピンクの花をつけている。

康正2年(1456年)、太田道真は嫡子・資長(太田道灌)に家督を譲る。
康正2年から長禄元年(1457年)にかけて道真・道灌親子は河越城(埼玉県川越市)、岩槻城(岩付城/埼玉県さいたま市)、そして江戸城(東京都千代田区)を築いて主君扇谷上杉定正をよく補佐し各地で戦功をあげる。

太田道灌は、山内上杉顕定(あきさだ)の謀略により、文明18年(1486年)、主君・定正の手によって定正の居館・相模糟屋館(神奈川県伊勢原市)で謀殺されてしまった。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。父・太田道真も翌々年の長享2年(1488年)に越生(おごせ)で死去している。
太田道灌の墓は伊勢原市上粕屋の洞昌院(とうしょういん)にある。寺自体も太田道灌の開基。まさにゆかりの寺となっている。この近くには道灌の主君・上杉定正の粕屋館跡があり、前述したように道灌はここで謀殺された。粕屋館跡(上杉館跡)は、産業能率大学湘南キャンパスあたりの台地上にあったと推測されているが、産業能率大学建設時の発掘調査でもその遺構は発見されておらず、キャンパスの東側が居館跡と推測されている。

岩槻城の築城については、現在、太田氏築城説と成田氏築城説が並立している状況だが、太田氏の居城だったことは間違いのない史実。。1522年(大永2年)、太田道灌の子孫、太田資頼(おおたすけより=父・太田資家は道灌の弟)が岩槻城を奪取し、以後、1567年(永禄10年)に北条氏の直轄地となるまで岩槻太田氏の居城となっているのだ。資頼の子・太田資正(おおたすけまさ)は岩槻城主となり、太田重正(英勝院はその妹というが定かでない)は徳川家に属し、やがて一族は遠江掛川5万石の藩主となる。

戦国時代末の武将・太田資正の居城。資正は豊臣秀吉の小田原征伐の際に小田原城に参陣して天下人となった秀吉に拝謁を許されている。

さいたま市岩槻区太田にある岩槻城跡は、現在、岩槻城址公園として整備され、黒門と裏門が移築されている。残念ながら城址公園は曲輪の一部で、本丸があった場所は住宅地となってしまっている。
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熊谷や和歌山にも太田さんのルーツが

その他の太田氏としては、武蔵国大里郡妻沼(現在の熊谷市永井太田周辺)を発祥とする武蔵七党猪股党の太田氏、上野国新田郡太田(群馬県太田市)を発祥とする太田氏、下野国都賀郡太田を発祥とする秀郷流の太田氏、紀伊国名草郡太田を発祥とする太田氏は太田城で太田党を率い、摂津国島下郡太田を発祥とする満仲流宇野氏族の太田氏は太田城を治め、播磨国佐用郡太田を発祥とする村上源氏赤松氏族の太田氏や、但馬国出石郡太田を発祥とする大江氏流の太田氏など多彩。

熊谷市(武蔵国大里郡妻沼)にある太田神社(埼玉県熊谷市飯塚1431)と太田小学校一帯も太田さんのルーツのひとつ。太田神社は、大正3年創建と比較的に新しいが、明治末の神社合祀のなかで、旧太田郷(太田村)の村社を合祀して村の中心に創建したもの。高城城(たかぎじょう/熊谷市永井太田1400)の城主も太田六郎だ。

城跡としては、江戸城の皇居を除けば、さいたま市岩槻区の岩槻城跡は、大手門(黒門)と裏門や、高々と築かれた土塁と空堀が往時を忍ばせる。他に、川越市志多町の太田道灌屋敷がある。また、太田城としては豊臣秀吉による水攻めに屈した太田党の本城である紀伊太田城(和歌山市太田)は、現在、来迎寺(和歌山県和歌山市太田529)のある場所が本丸跡と伝えられ、大立寺山門には紀伊太田城の大門が移築されて現存している。
太田城はあほど有名ではないが、太田城の戦いは備中高松城、武蔵忍城ととも「日本三大水攻め」のひとつに数えられている。

1576年(天正4年)に太田左近が修築した太田城に攻め込むのが天下統一をめざす羽柴秀吉。ここで秀吉が採ったのが水攻め。羽柴秀吉軍が太田城に攻城した時には、6万から10万。対する太田衆は、3000人から5000人。太田左近は城兵に対して「堀は深く櫓は高い。一度秀吉に弓を引いたのだから、大軍を恐れて降参するのは、勇士のすべきことではない」と諭して奮戦したという。1ヶ月にも及ぶ籠城戦で兵糧も尽き果て、ついに太田左近らは自刃。
玄通寺の近くに「小山塚」という碑が立っているのは、3ヶ所築かれた首塚のひとつ。
他には、常陸国、下総国、摂津国(前出)などの太田城が知られている。
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↑来迎寺山門

また、東京都北区赤羽の太田道灌が築いた稲付城址にある自得山静勝寺の石段上正面に道灌堂があり、岩槻城主太田道真が岩槻に建立したことに始まる新座市野火止(のびどめ)には平林寺があり、熱川温泉には道灌乃湯と太田道灌像がある。
太田道灌像はJR日暮里駅前にもあるし、東京国際フォーラムの建物内に置かれてもいる──この銅像は旧都庁にあったものだと思うが、東京都の恩人をなぜ新宿の新庁舎に連れて行かなかったのだろうか。

太田姓は東海地方(静岡県で大姓24位、愛知で27位)を中心に全国に分布。
代表家紋は、太田道灌と同じ太田桔梗。土岐桔梗に対して太田桔梗は花弁が細いのが特徴である。他に、矢、釘抜、五三桐、違い鷹の羽、九曜、鴛鴦(おしどり)など。

 

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