藤井さんのルーツを探せ!

藤井さんといって誰を思い出すだろう?
元チェッカーズのリードボーカル・藤井フミヤ(藤井郁弥)は、福岡県久留米市の出身。
お笑いタレントの藤井隆は、大阪府豊中市の生まれ。
福岡ヤフオク!ドームの15番通路に「藤井ゲート」の名を残し、31歳の若さで夭逝した福岡ダイエーホークスの投手・藤井将雄(ふじいまさお)は、佐賀県唐津市出身。
ちなみに洋菓子の不二家は、明治末期に創業者である藤井右林衛門(ふじいりんえもん)の藤にちなんで、不二家にしているのだが、出身は愛知県で旧姓は岩田。明治18年、愛知県の農家・岩田林七の末っ子に生まれ、4歳の頃、近所の藤井家の養子となり、10歳で名古屋の商店に奉公。横浜に出て、明治43年に不二家を創業したのだ。

ここに挙げる有名人はすべて西日本で、九州が多い感じだが、実際は全国に31万人ほどいる藤井姓は山陽地方に多く、広島県と山口県で大姓4位、岡山で6位となっている。

藤井さんのルーツをたどって、まずは古代へ

古代には百済(くだら=朝鮮半島南西部にあった国、倭国と同盟関係にあったが対立する唐の侵入で滅亡)王族の子孫である葛井(藤井)宿禰がいた。かつて吉備国で、白猪屯倉(しらいのみやけ=大和朝廷の直轄領で、銅・鉄の採掘が行われていた)の経営に当った白猪史(しらいのふひと)は、後に葛井連(ふじいのむらじ)と名を変える。岡山県岡山市西大寺の安仁神社(あにじんじゃ/TOPの画像と下の画像)あたりがかつての藤井の地であると推測されている(これに関しては諸説あり定かでない)。
安仁神社は、江戸時代に藩主・池田家の祈願所となる以前は、宮城山(みやしろやま=旧称は鶴山)の頂に鎮座していた。昔はこの鶴山の麓まで海であり、入江の奥の良港だったといい、鶴山には磐座(いわくら)など古代の祭祀の跡がある。
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佐賀、福岡県境に聳える基山(きやま/標高404m)には、古代朝鮮式山城がある。白村江の戦いに敗れた大和朝廷が、朝鮮半島からの襲撃に備えて大宰府を防衛するために築いた城だ。
そこに「今よりは 城山道はさぶしけむ 我が通はむと 思ひしものを」という万葉歌碑が立っている。
作者の葛井連大成(ふじいのむらじおおなり)は、朝鮮百済系の渡来人で、728年(神亀5年)従五位下となった大宰府の役人。
上司の大宰帥・大伴旅人が愛妻大伴郎女を失ったのち、天平2年(730年)12月半ば、奈良の都に帰任した際、筑後守葛井連大成が悲嘆して作った歌だという。
「城の山道」(基山越えの道)は筑後国国府(現在の福岡県久留米市合川町)から大宰府(現・福岡県大宰府市)に向かうときに使う山道。「これから先、基山越えの道は、楽しくないことだろう。君(大伴旅人)のいない大宰府へ通おうというのに」。
歌碑は筑紫野市山口、九州自然歩道基山コース沿いに立っているが、九州の藤井さんのルーツは、古代の渡来人にまで遡るのかもしれない。

藤井寺市には藤井さんの氏寺が!

さらに、河内国志紀郡からも古代豪族の葛井氏(ふじいうじ)が生まれ、葛井連広成(ふじいのむらじひろなり)が創建した大阪府藤井寺市藤井寺にある葛井寺(ふじいでら/藤井寺)は、葛井連(ふじいのむらじ)の氏寺となっている。
大阪の藤井寺の名はこの葛井寺から生まれている。
この葛井寺、寺によれば、「百済王族『辰孫王』の子孫・王仁(わに)氏一族の葛井給子(ふじいのきゅうし)が当時の天皇の仏教興隆政策に協力し、国家のためと称して創建されました」とのこと。
これを史実にあてはめると、王氏一族の白猪史(しらいのふひと)が元正天皇の養老5年(721年)に河内恵我長野邑(藤井寺近辺の旧名)に土地を賜り、名も「葛井連(ふじいのむらじ)」と改め、本拠地としたことが裏付けられている。古代の藤井寺市には河内国の国府も置かれた文化の中心で、葛井連(ふじいのむらじ)の親族で帰化系の文化人である船史(ふなのふひと)や津史(つのふひと)も周辺に居住して、古代の文化を支えていた。
ややこしいので、少し話を整理すると、第16代百済王辰斯王の子辰孫王を発祥とする渡来系氏族船氏の祖=王辰爾(おうじんに、王智仁)。王辰爾には兄の味沙と弟の麻呂がおり、それぞれ葛井連、津連である。

その後、中世になって永長元年(1096年)、大和明日香、藤井安基が寺の荒廃を歎き、伽藍の大修理に尽力したため、藤井寺と通称されるのだという。地名が藤井寺なのはそのため。
葛井寺に安置される千手千眼観世音菩薩坐像は日本最古の千手観音で国宝。毎月18日、つまりは観音様の縁日に開扉されるから、藤井さんはこの時を狙って参詣しよう。
葛井寺

関東の藤井さんのルーツは栃木県壬生町に

また、百済系の藤井氏は神職にも多く、河内、大和、肥前の国に分布する。さらに、公家の藤井氏は卜部氏(うらべうじ)の支流で、卜部兼忠の子・兼国が藤井氏を称した。

現在、関東の藤井氏は下野国都賀郡藤井(現在の下都賀郡壬生町藤井)より発祥した藤原秀郷流小山(おやま)氏族の流れが多い。
頼朝に挙兵の頃から仕えていた小山朝政(おやまともまさ)の後裔で「藤井小四郎」と呼ばれた出羽守政秀が藤井氏の祖とされている。
13世紀(鎌倉時代)に小山氏5代・小山時朝によって藤井城が築かれ、城跡は現在円照寺(栃木県下都賀郡壬生町藤井1240-02)となっている。
寺を囲むように土塁が巡らされているのが確認できる。

藤井城跡・円照寺(関東の藤井さんのルーツ)=栃木県下都賀郡壬生町藤井1240-02

三河国碧海(あおみ)郡藤井郷(愛知県安城市藤井町)からは徳川家譜代大名の藤井松平氏が生まれている。
松平宗家5代・松平長親の五男・利長が藤井郷に住み、藤井松平家の祖となるのだ。
松平利長は、天文9年(1540年)、織田信秀の三河安祥城攻めで、安祥城防戦に成功(落城したとの説もあり定かでない)。永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」の丸根砦攻めで討死したという(討死に関しても諸説ある)。その後、藤井松平家は家康に従軍し、大名となって土浦藩、高崎藩、上山藩などの藩主を務めている。
安城市藤井町の藤井公民館前の秋葉社横に藤井城址の碑が立っている。
そこから北にいった県道294号藤井北山交差点の少し北に、藤井戸跡の碑が立っている。実はここに清らかな藤の花を思わせる泉が湧いていたといい、それが藤井という地名の由来になっている。
全国の藤井という地名もこの藤の井戸という由来も多いのにちがいない。
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さらに、藤原利仁流の藤井氏もいる。この斎藤氏族の藤井氏は、能登国藤井(石川県鹿島郡中能登町藤井)より発祥し加賀、越中へと広がった。天文年間(1532~55)、正霊山(しょうれいざん=井原市芳井町吉井)城主で神辺(かんなべ)城主山名理興(やまなまさおき)の二番家老を勤めた藤井能登守皓玄(こうげん)は、藤原秀郷流とも藤原利仁流ともいわれている。
常陸国那珂郡藤井(茨城県水戸市藤井町)より発祥した清和源氏佐竹氏族の藤井氏は、佐竹義篤(よしあつ)の子善貫が藤井氏を称した。

他に、藤井松平氏の松平山城守家は、上野高崎藩、丹波篠山藩、播磨明石藩、大和郡山藩、下総古河藩、大和興留(おきどめ)藩、備中庭瀬藩、出羽上山藩と移封される。一方、藤井松平氏の松平伊賀守家は、駿河国田中藩、遠江国掛川藩、丹波国亀山藩、武蔵国岩槻藩、但馬国出石藩、そして信濃国上田藩と移封され、老中を輩出したことでも知られる。

代表家紋は藤で、下り藤、下り藤に一文字、藤に二つ引両、藤丸、藤巴など。秀郷流は下り藤や下り藤に三つ巴、秀郷流小山氏族は左三つ巴、百済系の藤井氏は上り藤、公家の藤井氏は丸に抱き柏、松平藤井氏は桜。他に、九曜、井桁、片喰(かたばみ)、五三桐など。

 

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