三浦さんのルーツを探せ!

三浦さんの有名人で、誰を思い出すだろう?
文学者では、『氷点』、『積木の箱』の三浦綾子は北海道旭川市の出身で、故郷の旭川市に三浦綾子記念文学館が建っている。
同じ文学者で、文化庁長官も経験した三浦朱門は東京府東京市の生まれ。
エベレスト最高齢登頂者の三浦雄一郎は、青森県青森市の出身。
芸能人でいえば、三浦友和が山梨県塩山市(現甲州市)出身。女優の三浦真弓は岩手県。
サッカーの三浦知良は静岡県静岡市。
漫画家のみうらじゅん(三浦純)は京都市、さくらももこ(旧姓三浦美紀)は静岡県清水市(現・静岡市清水区)の出身。こうしてみると、多士済々の三浦さんだが、芸術系に強い感じで、東北、北海道と静岡が多い感じだ。

実際に全国におよそ30万人ほどいる三浦さんは、秋田県(大姓7位)を筆頭に、青森(11位)、宮城(16位)、岩手(18位)、北海道(19位)など東北・北海道に多く、西日本では島根と大分(20位)に多いのだ。

三浦さんのルーツは、やはり三浦半島にある!

桓武平氏の名門三浦氏は、「三浦党」と称する一族からなっていた。三浦一族には、和田・岡崎・津久井・大多和・多々良・長井・佐原・芦名・矢部・真田・芦田・土屋・佐久間・長田・杉本・正木・横須賀・会津などの各氏がいて、一族の幟をなびかせて戦国時代を駆け抜けていった。

三浦氏は、名のとおり三浦半島に拠を置いた一族である。
三浦氏の居城跡で、鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡の一つの衣笠城(きぬがさじょう/相模国御浦郡=神奈川県横須賀市衣笠町)に出掛けてみよう。衣笠城址近くの衣笠山公園は「日本のさくらの名所100選」選定の桜の名所としても知られているので、そのころに訪ねてみるのも楽しいだろう。
勇将三浦義明が討死したことでも知られる衣笠城跡は小さな公園になっていて、当時の遺構である井戸や堀跡が残っている。衣笠インター入口付近、「衣笠城追手口遺址」と記された石碑が城の大手(玄関口)。中世の山城なので、石垣も堀もない。天然の要害で、深山川・大谷戸川が堀の役目を担っていたのだ。
衣笠山の展望台からの展望は見事。
南麓の大善寺には居館があり、三浦一族の学問や仏教信仰の中心的な役割を果たしたのだという。祀られる不動明王は、2代・三浦為継が後三年の役に出陣したとき、戦場に現れて、敵の射かける矢を打ち払い、為継を守ったと伝えられる。まさに三浦さんにとっては、屈指のパワースポットというわけなのだ。残念ながら現在は不動堂も蔵王権現堂も残されていない。ちなみに『新編相模風土記』には、大善寺裏山を衣笠城の本丸跡、大善寺を二の丸跡と記されている。

「三浦一族」は、桓武平氏の子孫・村岡為通が源頼義に従い前九年合戦(1051年~1062年)に参戦し、その恩賞として与えられた所領の地名を氏として、三浦為通を名乗ったのが始まりだ。
為通は所領の中心、衣笠に城を築き、治承4年(1180年)の衣笠合戦で平家方の大軍が押し寄せて奮戦むなしく落城している。

衣笠城跡
衣笠城跡
大善寺
大善寺

京急油壺マリンパーク周辺は大切な地

この桓武平氏良文流の三浦氏は、板東八平氏の一つ。前九年の役での戦功により源頼義から相模国に領地を与えられた村岡為通(三浦為通)が、康平5年(1062年)、衣笠城を構えた後、代々源氏に仕えることとなる。
前述の衣笠城を居城とした三浦義明(TOPの画像)は頼朝の挙兵に対し三浦党を率いて助け、その子・義澄を始めとする三浦一族は壇ノ浦合戦で先陣を務め、「海の豪族」の名を広げる。
そして、鎌倉時代に三浦氏は御家人として相模国で最大の武士団に成長するが、義澄の後を継いだ三浦義村の死後、四男・三浦光村と北条氏(執権北条時頼)との対立が大きくなって、ついに鎌倉幕府の内乱となる。北条時頼の謀略による、宝治元年(1247年)の宝治合戦(ほうじかっせん)において三浦氏は全滅する。鎌倉を舞台にした宝治合戦。『吾妻鏡』によれば、北条執権方の急襲を受けた三浦氏側は幕府軍に敗れ、残兵は源頼朝の墓所・法華堂に立て籠もって自害、こうして三浦半島を拠点に関東に覇権をふるった三浦一族は滅亡する。
昭和54年のNHK大河ドラマ『草燃える』で三浦義村は藤岡弘、三浦光村は京本政樹が熱演。平成13年のNHK大河ドラマ『北条時宗』では三浦光村を遠藤憲一が好演している。

一方、宝治合戦の際、北条時頼側についた三浦氏もいた。

この流れの三浦氏は、時高のとき新井城(荒井城/神奈川県三浦市三崎町小網代)を築城したが、永正13年(1516)、北条早雲によって新井城で一族は全滅。このとき討死した城主・三浦義同(みうらよしあつ=三浦道寸)の嫡子・三浦義意(みうらよしおき)の首が、小田原まで飛んでいって祟りを及ぼしたという。
──油壷から三崎へ、「三浦一族終焉の地」を旅してみたい。三浦氏は、四方を絶壁で囲まれた新井城(荒井城)で北条軍と3年間戦ったが、遂に力尽いて落城。油壺湾の油壺という名は、合戦の際の城兵の血で染まり、あたかも油を流したように光っていたことが由来という。このとき援軍に向かった太田資康(太田道灌の子で道寸の娘婿)も北条勢に迎撃されて討ち死にしている。
激戦の末、この地に散った最後の城主、三浦義同(三浦道寸)の墓が、小網代湾に面した小高い場所、鬱蒼と茂る照葉樹林の中に立っている。
「討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの土くれ」が三浦義同(三浦道寸)の辞世の句。
新井城一帯は京急油壺マリンパークの敷地になっているとなっているので、マリンパークの帰路、ぜひ三浦義同の墓にも立ち寄ってみたい。

油壺湾
将兵の血に染まったという油壺湾
三浦義同(三浦道寸)の墓
三浦義同(三浦道寸)の墓

横須賀・三浦市にある三浦さんゆかりの地

三浦半島にあるおもな三浦氏ゆかりの地は、横須賀市に満昌寺(三浦義明の墓/神奈川県横須賀市大矢部1-5-10)・近殿神社(ちかたじんじゃ=祭神が三浦義村/神奈川県横須賀市大矢部1-9-3)・薬王寺跡(三浦義澄の墓/横須賀市大矢部1-13)・清雲寺(三浦氏三代の墓/神奈川県横須賀市大矢部5-9-20)・満願寺(一族の佐原義連〈よしつら〉の墓/神奈川県横須賀市岩戸1-4-9)・浄楽寺(一族の和田義盛建立/神奈川県横須賀市芦名2-30-5)、三浦市に和田の里・八雲神社(和田義盛の碑/三浦市初声町和田)・来福寺(和田義盛の菩提寺/神奈川県三浦市南下浦町上宮田1859)など。三浦義明の孫として生まれた和田義盛は、和田の地を領地としたことから和田を名乗るようになりました。三浦さんのルーツであるとともに、和田さんのルーツにもなっています。

中国地方の三浦さんなら真庭市勝山へ

三浦惣領家は滅び支族は四散したが、その一党は後世、全国に広まった。今を生きる三浦さんは、この末裔に違いない。

武蔵の三浦氏、岩代国(いわしろのくに=福島県の西半分)の三浦氏、陸奥の三浦氏、出羽の三浦氏、駿河の三浦氏、美作の三浦氏。

美作勝山藩(現在の岡山県真庭市勝山)は、明和元年(1764年)、譜代大名の三浦明次(三河刈谷藩主・三浦明喬の三男、三河西尾藩の第2代藩主)が三河国西尾藩より転封されたことに始まる。その三浦氏の祖は、下総矢作藩主の三浦正次。
ところが、歴史は時にルーツの地に導くもので、美作勝山藩の藩庁となった勝山城(高田城)を築城したのは延元元年(建武3年、1336年)頃、関東で活躍した三浦氏の当主・三浦高継。足利尊氏の命で美作国に新田義貞勢を討伐するよう命じられ、勝山に赴き、勝山城の前身である高田城を築いたのだ。延元5年(1340年)、三浦貞宗は美作真島郡の地頭に任ぜられ、城をさらに強固の砦とした。
戦国時代に入っても三浦氏の居城は続き、天文13年(1544年)、尼子の軍勢に攻められた際も、時の城主・三浦貞久はこれを撃退している。
戦国時代の末、天正12年(1584年)、ついに美作の三浦氏は終焉をするのだ。
そして、江戸中期に三浦藩主として復活、明治を迎えるという島根県など中国地方の三浦さんにとっては、随一のルーツになっているのだ。

岡山県真庭市勝山町の北方にある城山(如意山)には、三浦氏が血の攻防戦を繰り広げた勝山城跡(高田城跡)が残り、山頂から中腹にかけて曲輪や堀切が、また旧二の丸(城山グラウンド)の西隅にはかつての櫓台の石垣が残されている。三の丸には御殿があったというが面影はない。
勝山の城下には三浦氏ゆかりの古刹も残る。安永2年(1773年)から勝山藩主・三浦氏の菩提寺の安養寺(岡山県真庭市勝山727)、明徳元年(1392年)に三浦貞宗が祈祷寺として創建し、境内に「三浦貞宗供養塔」のある化生寺(かせいじ/岡山県真庭市勝山748)は、三浦さんなら必踏の地。
城下町の通りには土蔵の白壁や格子窓の町家が連なる(岡山県の勝山町並保存地区に指定)。軒先に吊るされた暖簾には三浦氏の紋章が染められている。
余談だが、藩政時代に勝山藩の家臣で江戸詰だったのが鳩山家。その子孫である鳩山由紀夫、邦夫両氏は、平成8年に安養寺を訪れて、先祖の前で民主党立ち上げを誓っている。

勝山城下の家並み
勝山城下の家並み

三浦市の代表家紋は、三浦三つ引両。他に、鶴の丸、三つ沢瀉(おもだか)、釘抜、松皮菱、三つ巴、違い鷹の羽など。

 

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