大姓45位の西村さんは、全国に30万人ほど暮らしていて、シェアは0.24%ほど。本村から見た方向の東西南北に村をつけて、東村、南村、北村とそれぞれ地名が生まれ、その地名から苗字が誕生したという典型的な地形姓。しかも「村仲間」のなかではダントツに多いのが西村さん。何か理由があるのでしょうか?
西村さんのルーツはなんと鉄砲伝来の種子島に!
東西南北の村、加えて本村の中では西村さんが断然多く、全国に30万人。
それから北村さんの16万人、本村さん2万1000人、東村さんの4000人、南村さんの2000人と西→北→本→東→南と減っていきます
本村に対し、西や北に人は定住し、東や南に住まないという地政学的な意味合いがあるのでしょうか。
もしくは、ヒガシムラ、ミナミムラは、ニシムラ、キタムラよりも発音しづらいということなのかもしれません。
ミナミムラは言いづらいので、村上にしようなんてことだったのかもしれません。
さてさて、「村仲間」でダントツの西村さんは、地形姓だけに全国に発祥地がありますが、なかでも有力な西村さんのルーツは、清和源氏義家流新田氏族の新田能重が銃術修行のため鉄砲伝来の大隈国(現・鹿児島県)種子島(たねがしま)に渡り、西村(浦)に住んで家号にしたという地(清和源氏岩松氏の流れという説もあります)。
西村流砲術の元祖・西村忠次(にしむらただつぐ)はその流れといわれ、天正年間に西村時玄は種子島の島主である種子島氏の家老を務めています。
また明治時代の名ジャーナリストで、「天声人語」の名付け親・西村天囚(にしむらてんしゅう)もこの種子島の出身で、やはり祖先は西村織部丞時貫。
種子島西之本村(鹿児島県熊毛郡南種子町西之本村)に鉄砲伝来時、西之村を治めていた西村織部之丞の屋敷跡があります。
西村織部之丞は、語学が大変達者で、鉄砲伝来時、明国船の乗組員と筆談したと伝えられています。
西村さんの先祖には芸術家が多い
西村氏は様々な分野で歴史に登場しています。
織田信長の御用釜師として「天下一」の評が高かった西村道仁(にしむらどうにん=西村家の始祖)は、京都の三条に住み、西村家は代々千家に出入りする釜師(茶釜を鋳る職人)として続いています。
同じ京都の六条に「丁字屋」という書肆(しょし=書物を出版・販売する店)を構えていた西村家は代々九郎右衛門(にしむらくろうえもん)と称し、東本願寺の御用書肆(ごようしょし)を務めていました。
西村九郎右衛門の10代目の三男・西村七兵衛は天保2年(1832年)、京に生まれ、暖簾分けして丁子屋七兵衛を名乗っています。
これが現在も続く老舗の仏教書専門出版社・法藏館(ほうぞうかん)で、社長も当然、西村さんということに。
そういえば、江戸時代、京出身の俳人で本業は縫針問屋だった西村定雅(にしむらていが)もいました。
京から江戸に移れば、独特の漆絵と石摺絵を考案した浮世絵師の西村重長(にしむらしげなが=仙花堂)がいて、どうやら西村さんは芸術家肌という感じです。
戦国時代の美濃国(岐阜県南部)に西村勘九郎正利(にしむらかんくろうまさとし)という人物がいて、その名はたいして知られていませんが、やがて長井姓を名乗り、次に斉藤姓を名乗った下克上の斉藤道三その人。
もっとも、西村勘九郎正利という名前の前は松波庄五郎と名乗っていたというので、彼は果たして西村氏なのか、それとも松波氏、長井氏、斉藤氏なのか? といった感じです。
父は松波なので出自は松波家。
長井氏家臣・西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称し、長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗ります。
さらに美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った──と下克上を絵に描いたように出生の度に姓を変えているのです。
戦国時代を生き延びる知恵だったのでしょう、さすがは戦国乱世で、名前もコロコロと変える人も多かったのです。
兵庫や隠岐の島にも西村さんのルーツが
甲斐国(現・山梨県)からは武田家3代目・武田信義(たけだのぶよし)の孫・一宮信賢を祖とする清和源氏武田氏族の西村氏が生まれています。
周防国玖珂(くが)郡西村を発祥とする西村氏は西村城(山口県岩国市錦町府谷西村)を居城としていましたが、後に府谷八幡宮の神職となっています。
伊勢国からは伊勢神宮の神職荒木田氏族の西村氏や、伊勢国司の村上源氏北畠氏族の西村氏が出自。
さらに、大和国式上郡西村を発祥とする西村氏は藤原氏流光岡氏族(奈良県桜井市では西村姓は18位)、出羽国からは斯波氏流の西村氏が、丹後国からは細川氏流の西村氏が、武蔵国からは丹治氏の末裔の西村氏が、摂津国からは渡来系氏族の坂上氏族の西村氏が、伊賀国からは服部氏族の西村氏が、阿波国からは小笠原氏族の西村氏生まれていますが、このあたり、ルーツをたどるのは残念ながらかなり難しいのは、やはり地形姓ゆえということに。
──城跡としては但馬気多郡水生城(みずのおじょう=兵庫県豊岡市日高町)があり、水生城主が西村丹後守。
天正8年(1580年)、織田勢の羽柴秀吉の第二次但馬侵攻の際、西村丹後守が籠もる水生城に但馬の軍勢は終結し、羽柴軍と激突しています。
水生城は、八代川の北岸の丘陵に築かれた3つの山城の総称。
山腹にある長楽寺(兵庫県豊岡市日高町上石661)から山道が山頂に通じていて、登城にはかなりの山登りが必要です。
長楽寺は行基の開山と伝わる古刹で、花弁が一枚ずつ散る「散り椿」で有名。
羽柴秀吉軍に攻略された時、戦死者の霊を慰めるために植えられたと伝えられるもので樹齢は500年ほど。
一般に椿は花全体がポトリと落ちますが、長楽寺の椿は花弁の数が20枚近くあり、花びらが別々にポトリポトリとはかなく散っていくのです。
まさに戦死者を弔うかのように。
花期は3月中旬〜4月。
西村さんならこの椿の咲く時季に、ぜひ訪れてもらいたい場所です。
隠岐の島町西村の鎮守・西村神社
西村神社としては、島根県の隠岐島に西村神社(隠岐の島町西村296-1)があり、西村神社祭礼の8月14日に限り西村神楽が奉納されています。
隠岐島の北に位置するから北村でもいいようだが、すぐ東に昔からの天然の良港の中村があるので、中村に対して、西側の村の意でしょう。
実は西側は西方浄土(さいほうじょうど)という言葉がある通り、西方はるかかなたには、苦しみのない蓮(はす)の花の咲き乱れる安楽の世界(極楽浄土)があるとされ、西に向かって拝むことからも吉とする方角だったのかもしれません。
西村さんが多いのも西が縁起のよい方角だったとも大きな要因だと推測できます。
熊本県球磨郡錦町西にも西村神社があり、鹿児島県いちき串木野市に西村寺があるのも、そんな理由でしょうか。
西村さんは滋賀県を中心に近畿に多い
西村姓は滋賀県でなんと大姓4位と大躍進、京都で7位など近畿地方に多く、中国・四国・九州でもかなり見かけますが、東日本には少ないのが特長。
家紋は、清和源氏新田氏は丸に三つ柏、丸に藤巴、甲斐源氏は軍配団扇、丹治氏(丹党)は寓生(ほや)に対い鳩。
ほかに、揚羽蝶、五瓜に四つ目、花菱、桔梗、藤、片喰(かたばみ)、三つ盛木瓜など。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
西村さんのルーツを探せ! | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag