赤山陣屋

赤山陣屋

伊奈氏は、徳川家康に従い関東入国すると、治水、新田開発に従事しました。伊奈忠治(いなただはる)は代官職を継ぐと幕府から赤山領7000石を下賜され、武蔵国赤山(現・埼玉県川口市赤山)に赤山陣屋を築いています。この陣屋を拠点に、伊奈忠治は荒川開削、江戸川開削、大宮氷川神社参道の中山道移設・大宮宿の形成に活躍をみせています。

関東の天領30万石を差配した関東郡代の陣屋跡

赤山陣屋

二の丸跡、背後に東京外環自動車道

赤山陣屋

本丸の中核部分は雑木林に

三河国幡豆郡小島城(現・愛知県西尾市小島町)の城主・伊奈忠家(いなただいえ)の嫡男・伊奈忠次(いなただつぐ)は徳川家康の江戸移封に従って関東に入り、関東代官頭として検地、新田開発、河川改修などに手腕を発揮します。
関東各地に残る備前渠(びぜんぜき)や備前堤(びぜんつつみ)は、実は伊奈忠次の官位「備前守」に由来しています。
武蔵国足立郡小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町小室)に屋敷を構えましたが(武蔵小室藩主)、その次男の伊奈忠治は、3代将軍・徳川家光の治世となる寛永6年(1629年)、赤山陣屋を築き、徳川幕府の関東支配に尽力しています。

寛政4年(1792年)、伊奈氏が改易になるまで160年間にわたり関東郡代の陣屋として機能しています。
赤山という地名は、赤芝山を略して赤山といったのが始まり。
日光御成道に近い場所というのも赤山に陣屋を築いた理由のひとつと推測されています。

代々、伊奈氏は文禄3年(1594年)の千住大橋の架橋に始まり、両国橋の修築、永代橋の架橋、千住大橋の掛け替え、永代橋の架橋なども行なっています。
寛政4年(1792年)に関東郡代を罷免された後は、赤山陣屋も廃止取り壊しとなっています。

周囲に巡らされた空堀に往時を偲ぶ

赤山陣屋

本丸と二の丸を隔てる西堀

赤山陣屋

本丸と家臣屋敷を隔てる南堀

赤山陣屋

山王権現とを隔てる東堀

内堀(空堀)と外堀(自然湿地の水堀)に囲まれた広大な陣屋の跡は、のどかな農地などとして残され、雑木林と農地の本丸跡、二の丸跡などが残されています。
出丸部分は東京外郭環状道路によって分断されていますが、本丸を取り囲む北堀、東堀、南堀、西堀の一部など(すべて空堀)が現存しています。

ただし、空堀も現在は1.5m前後の深さになっていますが、往時には6mもの深さで、登るのも大変だったと推測できます。

源長寺は、赤山陣屋を築く以前の元和4年(1618年)に伊奈氏の菩提寺とした寺。
知行地に菩提寺があり、代々眠っているという旗本は珍しく、伊奈家にとって赤山は故郷だったことがわかります。
源長寺には伊奈氏の墓所も残るので時間があれば寄り道を。

関東郡代の仕事とは!?
関東郡代は30万石という他の代官よりはるかに広大な幕府直轄領を支配していました。
その政庁として機能したのが赤山陣屋で、30万石の城ともいえることから赤山城とも呼ばれています。
関東郡代は、赤山陣屋と、馬喰町の郡代屋敷を頂点に、天領(幕府直轄領)を支配しました。
郡代のもっとも重要な業務は年貢の徴収で、る赤山陣屋とその出先機関である永田陣屋(現・さいたま市西区土屋)杉浦陣屋(埼玉県北葛飾郡松伏町)、徳川将軍が鷹狩りの際の休息所として設けられた小菅御殿(東京都葛飾区小菅)を結ぶ赤山街道も整備されました。
永田陣屋への大宮道、杉浦陣屋への越谷道、小菅御殿への道は千住道と呼ばれていました。木曽呂の富士塚(国の有形民俗文化財)も赤山街道・大宮道沿いに位置しています。

赤山陣屋 DATA

名称 赤山陣屋/あかやまじんや
Akayama Castle
所在地 埼玉県川口市赤山
電車・バスで 埼玉高速鉄道新井宿駅から徒歩20分
ドライブで 首都高速川口線新井宿出口から約1.4km。東京外環自動車道川口東出口から約1km
駐車場 15台/無料
問い合わせ 川口市文化財課 TEL:048-222-1061
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
 

 

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