見沼通船堀西縁

見沼通船堀西縁

享保16年(1731年)に開通した閘門式運河(こうもんしきうんが)の見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)のうち、見沼代用水西縁と芝川を結ぶのが見沼通船堀西縁(みぬまつうせんぼりにしべり)。さいたま市緑区にその遺構が残されていて、通船堀の横は散策路「歴史の道見沼通船堀」として整備されています。

見沼たんぼの西縁(にしべり)に沿って開削された運河

2つの閘門(関)が設置され、芝川に近い方を一の関、代用水側に近い関を二の関と称していました。
鳥居柱とよばれたケヤキの角材が門柱として設置し、上流側(見沼代用水側)に角落板(かくおとし)とよばれる平板を積み上げて水を貯めて船を通すというのが基本的な構造です。

閘門部分も往時のように復元され、通船堀横の散策路(車道)から見学が可能です。

実際にこの閘門を利用して舟運に使われたのは昭和初期まで。
江戸時代後期には10月末〜翌年の彼岸頃まで、明治期以降は12月〜2月までの、冬の農閑期だけ利用され、その他の時季は農業用水としての利水が優先されていました。

さいたま市、川口市周辺は天領が多く、年貢米を浅草にあった幕府の米倉や、旗本屋敷に運搬するため、利根川と荒川の中間に用水を通して、舟運を利用することは重要でした。
しかも米を収穫後の農閑期は、用水の水も農業に使われないため、閘門(関)を設置して、川と川の数位差を克服して船を運航したのです。

見沼通船堀西縁近くの八丁堤(埼玉県道103号吉場安行東京線=赤山街道)沿いに鈴木家の古い家が残されていますが、高田茂右衛門(高山家)とともに見沼干拓事業と新田開発に尽力した鈴木文平(鈴木家)に見沼代用水路の通船の差配権が与えられ、八丁堤などに通船会所を有していました。

見沼通船堀西縁
名称見沼通船堀西縁/みぬまつうせんぼりにしべり
所在地埼玉県さいたま市緑区大間木
関連HPさいたま市公式ホームページ
電車・バスでJR東浦和駅から徒歩5分
ドライブで東京外環自動車道川口中央出口から約2.5km
駐車場なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせさいたま市浦和観光案内所 TEL:048-883-1055
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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