滋賀県甲賀市水口町、水ロ藩2万5000石の居城だった水口城(みなくちじょう)の本丸跡に建つのが水口城資料館。かつての本丸・乾矢倉(いぬいやぐら)を復元した水口城資料館では、将軍上洛の際に宿館となった水口城の模型や、水口藩時代の資料などを展示。水口城の遺構としては往時を偲ぶ堀と石垣が現存。
堀と石垣、復元された乾矢倉が往時を偲ばせる
水口は古くから伊勢神宮参詣の宿場として開け、江戸時代には天領となり、東海道の宿場町としても賑わいをみせました。
東海道水口宿の西方に位置する水口城は、水掘に囲まれた本丸と、二の丸という2つの郭だけで構成されたシンプルな城。
本丸には御殿が建てられ、将軍上洛の際に利用する御座所を設置。
二の丸には歴代城主の御殿、藩政を司る施設があり、ここが藩庁としての機能を担っていました。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉の命によって伊勢(現・三重県)への要衝にあたる近江国甲賀郡水口村(現・滋賀県甲賀市水口町)に水口岡山城が築かれたのがルーツ。
現存する水口城の城郭は、慶長9年(1604年)、あるいは寛永11年(1634年)、将軍の上洛に際して、東海道・水口宿(東海道五十三次の50番目の宿場)に新たに宿館を築かせたのが始まり。
築城を担ったのは庭造りの名手として有名な小堀遠州(こぼりえんしゅう)で、戦略や軍事とは関係のない数寄を凝らした城が完成したのです。
城とはいっても平和な近世を背景にして築かれた水口御茶屋(水口御殿)だったわけで、小堀遠州は水口城の落成に際し、祝意を表して大池寺(甲賀市水口町名坂)の境内に蓬莱庭園を作庭。
湧水を利用した薬研堀(やげんぼり)に水をたたえていたことから「碧水城」(へきすいじょう)の別名もありましたが、今も往時を偲ぶ堀と石垣が現存しています。
明治維新後、多くの遺構は破却され、石垣も近江鉄道(明治31年、彦根〜愛知川間開通)の敷石に転用されるなどして石垣も大半が失われ、本丸跡地は学校敷地となり、運動場として利用されてきました。
昭和47年に将軍家の宿館となった歴史的な価値が再評価され、滋賀県の史跡に指定されたのを契機に、シンボル的な施設建設の気運が高まり、明治初年に民家に払い下げられていた本丸乾矢倉を再移築する形で復元し、平成3年11月に水口城資料館が開館。
水口御茶屋(水口御殿)が利用されたのは秀忠・家光の3回
本丸御殿が将軍の宿舎として使われたのは、2代将軍・徳川秀忠が娘・徳川和子の朝廷輿入れの調整を図る目的で元和5年(1619年)の上洛、将軍職を家光に譲るための元和9年(1623年)の上洛、後水尾天皇の二条城行幸時の寛永3年(1626年)の上洛の3回。
3代将軍・徳川家光も元和9年(1623年)、寛永3年(1626年)の2回、秀忠に帯同しています。
こうして3回、宿泊、休憩に利用された水口御茶屋(水口御殿)も正徳年間(1711年〜1716年)には解体され、以降、本丸は空地になっていました。
画像協力/(公社)びわこビジターズビューロー
水口城・水口城資料館 | |
名称 | 水口城・水口城資料館/みなくちじょう・みなくちじょうしりょうかん |
所在地 | 滋賀県甲賀市水口町本丸4-80 |
関連HP | 甲賀市観光まちづくり協会公式ホームページ |
電車・バスで | 近江鉄道本線水口城南駅から徒歩5分 |
ドライブで | 名神高速道路栗東ICから約19km。新名神高速道路甲南ICから9km、信楽ICから約12km |
駐車場 | 30台/無料 |
問い合わせ | 水口城・水口城資料館 TEL:0748-63-5577 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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