岐阜県羽島郡笠松町には、「志古羅ん」(しこらん)という伝統的な銘菓があります。味わってみると、ニッキ(シナモン)の風味もあって、少し洋風な感じも。ところがこの「志古羅ん」、大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目度もアップした豊臣秀吉の命名というから驚きます。
貴重な味を笠松菓子組合が継承

「志古羅ん」は、餅米をベースにし、ニッキの風味を利かせた「おこし」に似た飴菓子。
岐阜県笠松町は、木曽川に面した町で、中世から近世には木曽川の舟運で賑わいました。
上流からは木材や薪(まき)、下流からは米、塩、海産物などが運ばれ、対岸の尾張国(愛知県)とを結ぶ渡し船もあって、交通の要衝だったのです。
現在も、明治11年、明治天皇行幸の際に整備されたという石畳が、木曽川笠松渡船場跡に現存しています。
永禄5年(1562年)、笠松の和菓子屋「太田屋半右衛門」が創案したのが「志古羅ん」。
尾張から京へと向かう羽柴秀吉が、笠松湊に至り、この菓子を口にし、かたちは兜(かぶと)の下部に垂れ下がる錣(しころ)に似、香りは蘭のようで、「まさに街道の名物だがね」(名古屋弁)と賛えたことで、「志古羅ん」となったのだと伝えられています。
「太田屋半右衛門」取材時の話でも、正確な時代はわからないとのことでしたが、羽柴秀吉を名乗るようになった天正年間頃のことかと推測できます。
菓子が誕生した永禄5年(1562年)は、秀吉がねねと結婚した翌年。
秀吉はまだ足軽組頭で長屋暮らしなので、まだまだ無名の存在で、菓子に名を付けたとは考えにくい状況です。
天正5年(1577年)には中国攻め(播磨・但馬平定)を命じられるまでに出世しているので、その頃か、天正10年(1582年)の清洲会議が開かれた頃かと推測できます。
「太田屋半右衛門」が代々に渡って味を継承してきましたが、15代目が早逝、それを引き継いだ16代目も平成16年に他界し、「志古羅ん」廃絶の危機を迎えたのです。
そこで、製造方法を笠松菓子組合が継承、今では組合加盟の和菓子屋によって、味が後世へと伝承されています。
ちなみに鶯餅、守口漬も秀吉が命名ともいわれ、秀吉は名前を付けるのが大好きだったのかもしれません。
TOPの画像は「太田屋半右衛門」時代に取材、撮影したものです(撮影:大石正英)
| 豊臣秀吉が命名! 幻の和菓子「志古羅ん」とは!? | |
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