森繁久彌さん元歌をつくり、加藤登紀子さんが歌って有名になった『知床旅情』。この『知床旅情』で知床ブームがうまれたというほど、人気の歌だったのです。
下世話にいえば「ご当地ソングの代表格」であるこの歌の歌碑は斜里郡ウトロの観光船乗り場近くに立っています。森繁さんの直筆で「知床の岬に はまなすの咲く頃」と歌詞が刻まれていて、知床の玄関口でもあるウトロの名所の一つになってもいます。
『知床旅情』誕生に至るドラマとは?
ところが、峠を越えた根室支庁側の羅臼町の人にホンネ聞けば、漁師を中心に多くの人は「あの歌、ウトロにとられたんだべ」と落胆しているのです。 ちょっぴり聞き捨てならない話、それはなぜなのでしょうか? 実はこの『知床旅情』には誕生に至るドラマが隠されています。
時は、昭和34年に遡ります。イリオモテヤマネコの発見にもかかわる動物作家、戸川幸夫氏は、網走経由で知床入りを目指します。当時、知床は文字通りの「地の果て」。道道斜里宇登呂線が昭和33年10月に開通したばかりで、網走の人にとっても「行ったことないべ」。
東京日日新聞(現・毎日新聞)の社会部長、そして毎日グラフ編集次長まで務めた戸川氏だから、「秘境知床」は、非常に興味がそそられたのでしょう。 「網走市の観光課の人でさえ知床半島に行ったことがないというありさまで、谷村観光係長にお願いして知床半島に行ったことのある市民四人をやっと探して貰い、事情を聞いた次第だった。その時は知床半島のウトロまで行くのに営林署のジープに便乗し、営林署の宿舎に泊めてもらい、鮭の集荷船に乗って突端の番屋に行き、そこから先は番屋づたいに転々と移動して半島を旅した」(「氷海の嵐」 凍原社隔月刊誌『北の話』)。
戸川幸夫さんの小説『オホーツク老人』が発端に
昭和34年に「番屋づたいに転々と移動して半島を旅した」この取材は、翌昭和35年、小説『オホーツク老人』となって実を結びます。
知床半島の先端部の番屋で孤独に生きる一人の老人の物語。
今でこそ、漁船の高速化などで知床半島先端部・赤岩地区(羅臼町側の先端部)の番屋も羅臼町の道路終点、相泊港から日帰り圏内となりましたが、戸川氏が取材に訪れた頃は、夏場には漁師が番屋に滞在し、交通船という船で物資や人材を定期的に運んでいました。昆布漁の時季になると一家総出で番屋入りするので、子供たちも当然、番屋に入ります。ですから教師が船に乗って番屋を訪ね歩いて臨時の授業をしたほどといいます。
そんな番屋も、夏だけの季節移住の漁業基地ですから、海の荒れる晩秋から流氷が去る春までの休漁期間はほとんど無人状態となります。もちろん、厳冬期には船が近づけない厳しい自然に封鎖状態になってしまいます。
ところが、大切な漁網をネズミの被害から守るために番屋では猫が飼育され、冬も猫がネズミの番をするのですが、この猫のお守り役の「留守番さん」の登場となります。
この老いた「留守番さん」が主人公の感動ストリーが小説『オホーツク老人』というわけなのです。
映画『地の涯に生きるもの』が誕生
話は長くなりますが、森繁さんは小説『オホーツク老人』に目を通すと、「おれのために書いてくれた小説だ」と語り、森繁プロダクションを設立してその第1作映画をこの『オホーツク老人』にしたのです。
昭和35年、東宝・森繁プロダクションの手で、「留守番さん」である「彦市老人」こと村田彦市を主人公とする映画が誕生します。それが森繁久彌主演、久松静児監督の映画『地の涯に生きるもの』です。
映画のロケは昭和35年3月にウトロ(斜里郡斜里町)で始まり、同年7月に羅臼町でフィナーレを迎えます。
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