島根県松江市殿町にある松江城の天守は、全国に現存する12天守のひとつで、国内に5つしかない国宝天守のひとつ。慶長16年(1611年)、堀尾吉晴が5年の歳月をかけて完成。12天守のうち、天守の大きさ(平面規模)は2位、高さ(約30m)は3位、古さは5位。石落としや鉄砲狭間など、桃山期の実戦的な様式を残した貴重な建物です。
屋根にのった木彫り青銅張りの鯱にも注目を!
天守に入城する前に、まずは外観のチェックを。
天守は大きく分けて望楼型、層塔型に分けられますが、松江城は、望楼型天守。
入母屋(いりもや)の屋根を有する櫓の上に、望楼(物見櫓)をのせた形の天守で、初期の天守に多く見られるスタイルです。
しかも天守入口に「附櫓」(つけやぐら)という出っ張り部分があり、この櫓を経て、天守の内部に入る構造です。
国宝天守では、犬山城や彦根城も「附櫓」を有しています。
入城する前にもうひとつ、屋根にのった木彫り青銅張りの鯱(しゃちほこ)にも注目を。
高さ2mもあり、現存する木造の鯱では日本で最大です。
鯱は、空想の生き物ですが、火事の際には口から水を吹くという伝説があり、そうした災害を封じるという意味合いがありました。
松江城天守の実戦的な防御機能も確認を
慶長12年(1607年)、 末次城のあった亀田山に築城が始まったのが松江城。
慶長10年(1605年)、徳川家康は、秀忠に将軍職を譲り、自らは駿府(現・静岡市)に移って大御所政治と称される政治を展開します。
大坂城(現・大阪城)にはまだ豊臣秀頼が暮らした時代で、安定的な政権運営というわけではありませんでした。
堀尾吉晴は、豊臣恩顧の大名(豊臣政権三中老)でしたが、秀吉死後に家康に急接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与しています。
まだまだ国内に戦(いくさ)が想定される世の中のため、天守も攻城戦に備えて様々な防御機能を備えていました。
そのうちのひとつが附櫓の石落とし。
石垣に近づく敵を石を落とし、さらには鉄砲や矢を射掛けて撃退するという構造で、松江城天守には2階の四隅と東・西・北壁、附櫓の南側に設けられています。
もうひとつが、鉄砲を撃つ鉄砲狭間(てっぽうざま)。
狭間とは防御用の穴で、矢を射かける穴は縦長に、鉄砲を撃つのは丸や正方形に開けられていました。
松江城では天守各階の四方に、この鉄砲狭間、矢狭間が配されており、なかなか厳重な警戒ぶりです。
2階の狭間には石垣を登ってくる敵を狙う角度の狭間もあるほか、4階部分には唯一となる三角の様も。
なぜ三角なのかは諸説ありますが、デザイン優先という可能性も。
いよいよ天守最上階「天狗の間」を目指して入城
天守内部は資料館となり、甲冑、刀剣類から火事装束など松江藩ゆかりの品々が数多く展示され、松平18万6千石の威容を偲ぶことができます。
天守の内部は、昔のままに桐材で造られた急勾配の階段で上り下りするため、服装にはご注意を。
桐材を使ったのは防火防触のためと、いざというときには引き上げられるという仕組みから。
柱は小さな板を寄せ合わせ鉄輪で締めるという苦心のアイデアになっています。
江戸時代初期の『正保城絵図』と見比べると、多くの相違点があり、元文3年(1738年)〜寛保3年(1743年)に大改修したことがわかります。
築城、改修にあたって事前に作られる天守雛形(松江市指定文化財「松江城天守閣雛形」)が現存するのも、国宝5天守の内では唯一となっています。
1階は兵糧蔵、塩蔵、牢、大井戸。
2階にはいざという時に敵兵に頭上から石などを落とす石落としが1階屋根を貫くかたちで8ヶ所も配されています。
最上階の「天狗の間」からは松江市街を一望に。
6階からのこの眺めの良さも松江城の自慢のひとつになっています。
ちなみに、江戸時代の建築物なので、天守内には当然、エレベーターやトイレはありません。
トイレは二の門付近(二の丸上の段)で利用のこと。
ちなみに、天守は殿様などの居住空間ではなく、二の丸、三の丸の御殿を居住空間、そして藩政を執り行なう場としていました。
【完全攻略ガイド】 松江城・天守(国宝) | |
名称 | 松江城・国宝天守/まつえじょう・こくほうてんしゅ |
所在地 | 島根県松江市殿町1-5 |
関連HP | 松江城公式ホームページ |
電車・バスで | JR松江駅から松江市営ぐるっと松江レイクラインバスで10分、松江城(大手前)下車、徒歩5分 |
ドライブで | 山陰自動車道松江玉造ICから約6km |
駐車場 | 市営大手前駐車場(66台/有料) |
問い合わせ | 松江城山公園管理事務所 TEL:0852-21-4030/FAX:0852-21-4211 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |