徳川家康の正室・築山御前(つきやまごぜん=瀬名姫)が、徳川家康の命により、家康の家臣・野中重政に殺害されたのは、天正7年(1579年)8月29日。野中重政が刀を洗ったといわれる池があったのは、浜松医療センターが建つあたり。浜松医療センター前に史跡碑(太刀洗の池跡)と説明板が立っています。
徳川家康の正室・築山御前斬殺の刀を洗った池の跡
築山御前は、長男・松平信康の正室である徳姫(織田信長の娘)が信長に送った築山御前と信康の罪を訴える十二ヶ条の訴状により、天正7年(1579年)、岡崎城から浜松城に向かう途中、小藪村の佐鳴湖畔(富塚御前谷)で家康の家臣・野中重政に殺害されています。
築山御前38歳の時のことで、家康との間に生まれた信康も9月15日に二俣城で切腹しています。
往時には史跡碑の南側に池があったのだとか。
築山御前の遺骸は浜松の西来院に葬られたほか、愛知県岡崎市の八柱神社には築山御前首塚があります。
築山御前の首は、織田家に首実検のために送られた後、石川数正(いしかわかずまさ)によって祐傳寺(現・愛知県岡崎市)に葬られ、その後八柱神社に改葬されています。
築山御前は、若き家康が人質となっていた今川義元の姪(めい)。
長男・松平信康の正室・徳姫は、その今川義元を桶狭間(おけはざま)で討ち果たした織田信長の娘。
徳姫からの書状を安土城に届けた家康の忠臣・酒井忠次は、信長に対して申し開きをしなかったことから、築山御前と松平信康の処分が家康に委ねられます。
苦渋の選択の結果、築山御前は浜松城への入城すら許されずに斬殺、そして長男の信康は二俣城に幽閉の後、切腹ということに。
築山御前と松平信康が武田に内通したとは考えづらいことから、冤罪であったことはほぼ確実。
徳姫と築山御前が不仲だった、あるいは家康と信康の不仲説、はたまた酒井忠次と信康の不仲説など、諸説あって真相は定かでありません。
太刀洗の池跡 | |
名称 | 太刀洗の池跡/たちあらいのいけあと |
所在地 | 静岡県浜松市中区佐鳴台5-6-1 |
関連HP | 浜松観光コンベンションビューロー公式ホームページ |
電車・バスで | JR浜松駅から遠鉄バスで14分、医療センター下車、徒歩3分。または、JR高塚駅からタクシーで10分 |
ドライブで | 東名高速道路浜松西ICから約7.4km。または、浜松ICから約10.6km |
駐車場 | なし |
問い合わせ | 浜松市観光インフォメーションセンター TEL:053-452-1634 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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