静岡県沼津市根古屋、すぐ横を東海道新幹線が駆け抜ける愛鷹山の山裾にあるのが、興国寺城(こうこくじじょう)。愛鷹山から派生する支尾根の篠山を利用して築かれた中世の城で、北条早雲(伊勢新九郎盛時)旗揚げの城。隠れた名城ですが、続日本100名城に選定されています。
北条早雲旗揚げの地と伝承される城
文明8年(1476年)、今川義忠が急死すると、家督争いで甥の今川氏親を助けた功により長享2年(1488年)頃、足利義尚の奉公衆だった北条早雲(伊勢新九郎盛時/生前は北条を名乗らず、伊勢を称していました)が富士下方十二郷を与えられ、興国寺城を本拠地としたのが始まりと伝えられます。
ただし、富士下方十二郷を与えられたことは史実としても、北条早雲が興国寺城に本拠としたという歴史的な裏付けが乏しく、あくまで伝承の域を出ていません。
明応2年(1493年)、北条早雲(伊勢新九郎盛時)は、伊豆韮山の堀越公方・足利茶々丸を襲って伊豆国を攻め、戦国大名としての第一歩を踏み出しています。
天文5年(1536年)、武田信虎と今川義元との和睦に不満だった北条氏綱が領有し、北条氏綱と武田信玄との間の攻防の地にもなっていますが、元亀2年(1571年)に甲相同盟が設立し、興国寺城は武田信玄の領有に。
天正7年(1579年)、武田勝頼は北条氏と交戦状態に陥ったことを背景に、沼津湊に三枚橋城を築城、興国寺城はその詰城として機能するようになっています。
天正10年(1582年)、武田勝頼が甲斐・天目山で自刃し、武田家が滅亡すると、徳川家康が進出し、徳川領に。
その後、徳川家康の関東転封で、豊臣家の支配時代に。
藩政時代には、徳川家康の側近・天野康景(あまのやすかげ=三河三奉行)が藩主となり、興国寺城を藩庁に、興国寺藩が立藩しますが、慶長12年(1607年)に廃藩、廃城になっています。
興国寺城は、東海道新幹線の走る北側から北曲輪、本丸、二の丸、三の丸が直線上に並び、東側には清水曲輪(しみずくるわ)が配されています(本丸、二の丸、三の丸部分が中世の築城)。
興国寺城の見どころは、野面積みの石垣、大土塁(防御用の土の壁)と天守台背後に造られた幅20m以上もある大空堀です。
この大空堀は愛鷹山のローム層を利用し、深く掘ったもの。
天守台と伝承される場所からはからは東海道が通る原市街と駿河湾を一望にし、駿河湾の舟運、東海道を抑える要衝だったことがよくわかります。
興国寺城 | |
名称 | 興国寺城/こうこくじじょうあと |
所在地 | 静岡県沼津市根古屋 |
関連HP | 沼津市公式ホームページ |
電車・バスで | JR原駅から徒歩30分。または、JR沼津駅から富士急シティバスで31分、西青野下車、徒歩10分 |
ドライブで | 新東名高速道路駿河湾沼津スマートICから約3km。東名高速道路愛鷹スマートICから約5km |
問い合わせ | 沼津市教育委員会事務局文化振興課文化財センター TEL:055-935-5010/FAX:055-933-1270 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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