大猷院(たいゆういん)は徳川家光の諡号(しごう=おくり名)。家光は祖父である徳川家康を祀る日光東照宮の大改修(寛永の大造替)を行ない、自らも祖父の近くに眠ることを選んだのです。世界遺産「日光の社寺」の構成資産で、境内には22件もの国宝・重要文化財が建ち並んでいます。
日光山輪王寺大猷院(徳川家光廟所) 見どころガイド
慶安4年4月20日(1651年6月8日)、徳川家光は臨終に際して、「死後も魂は日光山中に鎮まり東照公のお側近くに侍り仕えまつらん」と遺言し、48歳の若さで将軍職のまま江戸城で没しています。
徳川家光の遺骸は、江戸から4日間をかけて日光へと運ばれ、天海大僧正眠る慈眼堂隣の大黒山に埋葬。
4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)は、父・家光の遺言に従い、承応元年2月16日、大黒山に霊廟(大猷院)の建築を着手していますが、家綱は11歳という若さのため、叔父の会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)、大老・酒井忠勝(さかいただかつ)、老中・松平信綱(まつだいらのぶつな)、老中・阿部忠秋(あべただあき)、酒井忠清(さかいただきよ)ら「寛永の遺老」の主導で、大猷院が建設されたのです。
保科正之、酒井忠勝が寄進した灯籠が要所に置かれているのはそのためです。
日光東照宮に比べて修学旅行、訪日外国人観光客などが少なく、落ち着いて日光の社寺を楽しめるのがこの大猷院。
日光山輪王寺の一角にあり、仁王門から先が有料エリアとなっています。
参道に315基の灯籠が並んでいるのも壮観ですが、諸大名の寄進によるもの。
「日光山の秘奥」と呼ばれる大猷院こそ、江戸時代(神仏習合時代)の日光山を今に伝える聖地となっているので、ぜひ一度、その幽玄な雰囲気を味わってください。
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- 仁王門
大猷院霊廟の正門でここからが有料エリアとなります(日光山輪王寺拝観券で入山可能)
阿吽(あうん)の仁王像(金剛力士像)が安置
左右の袖塀を含めて国の重要文化財に指定 - 宝庫
大猷院に伝わる宝物を収める庫
宝庫らしい校倉造(あぜくらづくり)で、扉口は黒漆塗(くろうるしぬり)
国の重要文化財 - 御水屋
参詣者がここで手や口を清める場所
天井には江戸時代初期の狩野派の絵師・狩野安信が描いた雲龍も
水は少し離れた斜面にある龍の口から、石の樋を伝って流れてくる仕様
国の重要文化財 - 石の灯籠
10万石以下の大名が奉納した石灯籠群
総数は日光東照宮の123基を上回る312基
国の重要文化財、世界文化遺産「日光の社寺」の構成資産にもなっています - 龍光院
徳川家光の廟所である大猷院を管理する別当所(僧院)
前面に玄関、背面に台所を付設した客殿ですが非公開
大猷院廟を目指す場合は玄関前でUターンし、二天門へ
国の重要文化財 - 二天門
左手に持国天、右手に増長天の二天を祀るのが名の由来
世界遺産「日光の社寺」で最大の楼門
門前の銅灯籠は、時の実力者で老中首座・酒井忠清と会津藩主・保科正之の奉納
国の重要文化財 - 鼓楼
夜叉門(やしゃもん)前に並ぶ向かって左側が鼓楼、右側が鐘楼
法要の時に打ち鳴らす大きな太鼓が置かれた楼閣です
下層部には末広がりになった袴腰が付いているのも日光東照宮と同じ
国の重要文化財 - 鐘楼
夜叉門(やしゃもん)前に並ぶ向かって左側が鼓楼、右側が鐘楼
文字通り鐘が吊るされる楼閣です
下層部には末広がりになった袴腰が付いているのも日光東照宮と同じ
国の重要文化財 - 夜叉門
四体の夜叉、四夜叉(よんやしゃ)が安置されるのが名の由来
霊廟中心部への入口を四夜叉が守護するかたちです
左右の回廊とともに国の重要文化財、世界文化遺産「日光の社寺」の構成資産 - 唐門
大猷院廟の入口に建つ最後の門
唐破風の下に白龍が彫られるのは、徳川家光が辰年(たつどし)だったから
国の重要文化財、世界遺産「日光の社寺」の構成資産 - 大猷院廟(拝殿・相の間・本殿)
歴代の将軍が参詣し、着座したのが拝殿、その奥に相の間、本殿と続く造り
日光東照社(現・日光東照宮)の権現造りを踏襲しながら仏殿造り(純仏教形式)
国宝 - 皇嘉門
奥院となる徳川家光の廟所(墓所)入口の門
この先は非公開で、立入禁止となっています
国の重要文化財
| 【旅に使える!】 日光山輪王寺大猷院(徳川家光廟所) 見どころガイド | |
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