日本初の鉄道は、「高輪築堤」などの海上ルートを採用! 遺構は2027年度公開へ

明治維新から間もない、明治5年9月12日(1872年10月14日)に開業した日本初の鉄道、新橋〜横浜。明治3年に測量が開始され、すぐに着工されていますが、全線29kmのうちなんと3分の1超の10kmは海上ルート。発掘された「高輪築堤」(2.7km)の一部は、保存され公園として2027年度に公開される予定です。

東京湾に浅瀬部分に築堤と呼ばれる堤防を構築

東京名勝高縄鉄道之図
3代歌川広重の錦絵『東京名勝高縄鉄道之図』

明治維新後に、開港されていた横浜と新たに首都となった東京を結ぶ鉄道が計画されましたが、ネックとなったのは敷設する場所。
とくに品川一帯には海岸沿いに薩摩藩などの武家屋敷が並んでいたこともあって、突貫工事で鉄道を通すためには、立ち退き作業の人ようがない海岸ルートが選ばれました。
明治政府の兵部省は、東京湾の湾岸防御に高輪周辺の土地が必要として、鉄道敷設を拒んだのが最大の理由です。

計画を担ったのはイギリス人技術者のエドモンド・モレル(Edmund More)で、イギリス公使ハリー・パークスの推薦により、明治政府の建築師長(鉄道技術主任)として雇用され、イギリスの植民地での鉄道敷設の経験と技術を活かして、日本初となる鉄道建設に携わりました。

セイロン島(スリランカ)で契約を交わしたエドモンド・モレルが横浜港に上陸したのは明治3年3月9日(1870年4月9日)。
1870年4月1日刊イギリスの技師向けの専門誌『The Engineer』に、すでに「江戸から大阪まで300マイルを、3フィート6インチ(1067mm)で敷設、最初の区間、江戸から横浜の20マイルは、すでに開始している」旨の記述があるので、横浜港上陸前におおよその計画が決まっていて、上陸後、迅速に敷設に取り掛かっていることがわかります。

このエドモンド・モレルは、東京湾に浅瀬部分に築堤と呼ばれる堤防を築き、その上に線路を通すことを生み出し、明治5年9月12日(1872年10月14日)の開業にこぎつけていますが、モレル自身は来日時にすでに結核に罹患しており、明治4年9月23日(1871年11月5日)、開通を見ずして横浜で没しています(享年30歳)。

実際に、建設工事を手掛けたのは、モレルを補佐したジョン・ダイアック(John Diack)、チャールズ・シェパード(Charles Shepherd)、ジョン・イングランド(John England)の3人でした。

高輪築堤の一部は公園として2027年度に公開される予定

高輪鉄道之図
月岡芳年画・年延助筆『高輪鉄道之図』いは橋梁部分も描かれています

東京都港区三田3丁目、高輪2丁目にある高輪築堤の遺構は、第七橋梁付近の石組みの遺構で、3代歌川広重の錦絵『東京名勝高縄鉄道之図』に描かれた築堤そのものです。
「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」として国の史跡に指定され、2025年3月27日(木)に街開きされた「TAKANAWA GATEWAY CITY」の一部として、第七橋梁部分が保存され、開業当時の盛り土やレールを再現した上で2027年度に公開が予定されています。
「明治の黎明期、日本の近代化を支えてきた鉄道施設。国内だけでなく、海外から訪れる人にも先人の偉業を体感してもらえる施設にしたい」(JR東日本)とのこと。

本来は石組みの築堤ですが、出土した部分は築堤の一部を切った橋梁部分もあります。
橋梁を設けているのは地域住民が海苔などの沿海漁業を営むため、船の出入りができるようにしたため。
現在の東海道本線(高輪ゲートウェイ駅〜品川駅)と国道15号の間に、第五橋梁〜第八橋梁まで5つの橋を設置していました。

2027年度に公開が予定される高輪築堤(JR東日本提供)
日本初の鉄道は、「高輪築堤」などの海上ルートを採用! 遺構は2027年度公開へ
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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