長崎県松浦市、伊万里湾口にある鷹島(たかしま)は、元寇(げんこう)の際、鷹島沖海戦の地。さらに台風襲来で退却を決意したという元寇終焉の地にもなっています。鷹島南岸の海底からは、平成23年、平成27年、令和6年にモンゴル軍(元軍)の軍船が発見され、短刀や陶磁器類が出土しています。
弘安の役では鷹島が主戦場となり、軍船の多くが沈没
2度にわたる元寇のうち、文永11年(1274年)の文永の役では、対馬、壱岐侵攻後、九州上陸の主戦場となり、モンゴル軍は鷹島に上陸し、住民を蹂躙して虐殺。
肥前国・松浦党の御家人たちが防戦するも圧倒的な武力を前に壊滅、モンゴル軍はさらに博多湾・百道原に上陸し、日本軍と激しい戦闘を展開しています。
弘安4年(1281年)では対馬、壱岐に侵攻後、博多湾に進入し志賀島などで激しい戦いが行なわれています。
鷹島沖海戦は、鷹島沖に停泊したモンゴル軍艦船隊に対して、日本軍の軍船が結集して攻撃を仕掛けたもの。
この海戦での手痛い被害により、モンゴル軍は鷹島で進軍を停止し、鷹島で防御する態勢に切り替えます。
その際、夜に台風が襲来し、モンゴル軍の多くの軍船が沈没大破し、溺死者も多数という悲惨な状況となり、撤退を決意するのです(モンゴル軍の軍船4400隻のうち残存艦船は200隻とも)。
日本軍は手を緩めず、伊万里湾海上の御厨(みくりや)で追撃し、伊万里湾から軍船を一掃、さらに鷹島掃討戦(鷹島を守備するモンゴル軍への総攻撃)を仕掛けています。
こうした過程を見ると、単に神風が吹いたというよりも、台風で弱っていたモンゴル軍を日本軍が躊躇せずに徹底的に掃討する作戦に出たことがよくわかります。
この鷹島掃討戦が元寇最後の戦いで、鷹島が戦闘終焉の地となっています。
令和6年10月に確認されたモンゴル軍の軍船は、鷹島東南部の沖合150m、水深18mの海底に沈んでいて、平成27年に発見された軍船からは50mという至近にあります。
船体を形成する外板材、内部を仕切る隔壁、船底部分の板材、船の背骨となる竜骨(キール)などが確認されています。
4400隻14万人というモンゴルの大船団の大部分が一帯の海域に沈んでいるため、今後も調査が進めば新しい発見が期待されます。
1隻目の沈没船が見つかった海域約38万平方メートルは平成24年に「鷹島神崎遺跡」として水中遺跡で初めて国史跡に指定されています。
元寇船3隻を発見! 元寇の主戦場・鷹島神崎遺跡(海底遺跡)とは!? | |
名称 | 鷹島神崎遺跡/たかしまこうざきいせき |
所在地 | 長崎県松浦市鷹島町神崎免1032 |
関連HP | まつうら観光物産協会公式ホームページ |
ドライブで | 西九州自動車道北波多ICから約23km |
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