戦国時代、天下統一へと導いた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、ともに愛知県出身で、名古屋ゆかりということで、地元・名古屋を中心に三英傑(さんえいけつ)と呼ばれています。そのうち、信長、秀吉は尾張国(愛知県西部)、家康は岡崎で三河国(愛知県東部)の出身です。
愛知県&名古屋市が三英傑を生んだ理由とは!?
「歴史にif(もし)はない」といわれるように、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「三英傑」が天下をとり、中世から近世へと橋渡しをしたのには、歴史的な必然があるはずです。
では、三英傑は、なぜ、現在の愛知県から生まれたのでしょう。
まずは、前提として、当時の首都だった京に近いこと、そして冬も雪が少なく、移動ができることがあげられます。
しかし、これは、あくまで前提条件で、同じことなら、奈良、和歌山や岡山、琵琶湖の南部や東部も天下取りを生んだはずです。
実は、愛知県の最大の優位性は、「肥沃な濃尾平野」だと推測できます。
織田信長が、名護屋(現・名古屋)から、清須(清洲)、そして岐阜と居城を移したのも、濃尾平野を制圧するためといわれています。
この肥沃な濃尾平野を背景に、他のエリアよりもいち早く兵農分離が進んでいたことが、まずは大きな要因だと考えられます。
中世と近世の分岐となる指標は、兵農分離(兵農分離に関しては諸説ありますが、権力統治という観点、政治学的には大きな指標です)。
つまりは、教科書にも登場する豊臣秀吉の「検地・刀狩り」ですが、秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を破ると、天正10年(1582年)、すぐに太閤検地(まだ羽柴秀吉の時代なので、正確には太閤検地ではありません)に着手、さらに天正16年7月8日(1588年8月29日)には刀狩令を発布して、農民の武装を解除し、兵農分離を進めまています。
もちろん、その背景には信長が頭を痛めた一向一揆の防止という観点もありましたが、当然、武家階級と、農民階級の明確化という視点もあったはずです。
検地で土地の権利関係を明確にし(石高制の実現)、さらに兵農分離を進めたことで、武士階級の支配する社会が確立し、近世が幕を開けたとされているのです。
実は、検地に関しては織田信長も実施し、兵農分離に関しては、豊臣秀吉が農家の出とも、足軽ともいわれるように、濃尾平野では他に先駆けて兵農分離が進んでいた可能性が高いのです。
越後の上杉謙信は、田植えや稲刈りの時季には兵力を動員できなくなりますが、信長は、半農半士が少なかったので、通年、戦(いくさ)ができたということに。
さらに、信長の清須城(清州城)は、尾張と伊勢(現、三重県)を結ぶ天王川(てんのうがわ)舟運の川湊として栄えた津島湊(つしまみなと、現・津島市)、家康の岡崎城も「五万石でも岡崎様はお城下まで舟が着く~」と謳われた 矢作川舟運(やはぎがわしゅううん)の要衝に位置していました。
近世的な統治、城郭建設、そして合戦には、舟運も重要な要素で、千賀重親(ちかしげちか)は、師崎水軍を率いて活躍しています(江戸時代の物流を支えた知多廻船へとつながっています)。
つまり、伊勢湾、三河湾の舟運が、戦時下にも大量の物資を運搬できるという近世的な物流を支え、秀吉の小田原攻めの際にも、この舟運による物資の大量輸送が行なわれているのです。
また、商業の中世的な縛りを解いて、楽市・楽座で商人を城下に集めるという発想も、商人を育成するという点、さらに都市と商工業者の一元的支配を目指したという点からも実に近世的です。
京への近さ、肥沃な濃尾平野、海につながる河川の舟運、この3つが他のエリアよりもいち早く、近世的なスタイルへの転換を支え、さらにそうしたメリットを活かして近世的な商業制度を確立させたこと、その結果、中世的な社会にしがみついた他の諸将を打ち破ったと推測できるのです。
ちなみに、最初の武家政権を築いた源頼朝も、現在の名古屋市熱田区出身ですが、名古屋市民もほとんどそのことを知らず、郷土の生んだ英傑には加えられていません。
織田信長
生誕日:天文3年5月12日(1534年6月23日)
生誕地:勝幡城(ほかに那古野城説もありますが勝幡城が有力)/尾張国
所在地:愛知県稲沢市平和町六輪城之内
産湯の井戸:現存せず
幼名:吉法師
父母:織田信秀、土田御前
没年月日:天正10年6月2日(1582年6月21日)
死没地:本能寺(本能寺の変で明智光秀に討たれる)
所在地:京都府京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町(本能寺跡)
葬儀:大徳寺(秀吉は総見院を建立)
墓所:本能寺・織田信長公廟
戒名:総見院殿贈大相国一品泰巖尊儀(本能寺)
大河ドラマ:平成4年・9作目『信長 KING OF ZIPANGU』(緒形直人)
豊臣秀吉
生誕日:天文6年2月6日(1537年3月27日)
生誕地:尾張国愛知郡中村郷(伝承)
所在地:愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47、常泉寺=加藤清正生誕の妙行寺に隣接
産湯の井戸:常泉寺境内に伝承される井戸が現存
幼名:不明(日吉丸は、寛永3年、豊臣秀次に仕えた医師・小瀬甫庵著『甫庵太閤記』の創作で、寛政9年刊行『絵本太閤記』で伝搬/『甫庵太閤記』=母が胎内に太陽が入る夢を見て妊娠して誕生し、日吉丸と命名、『絵本太閤記』=日吉権現の霊験によって、なかが懐妊したので日吉丸と命名)
父母:木下弥右衛門、なか(江戸時代初期の『太閤素性記』による)
没年月日:慶長3年8月18日(1598年9月18日)
死没地:伏見城
所在地:京都府京都市伏見区桃山町大蔵
葬儀:朝鮮出兵(慶長の役)の最中ということもあり、行なわれていません
墓所:豊国廟(京都市東山区阿弥陀ヶ峰)
神号:豊国大明神
戒名:国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
大河ドラマ:昭和40年・第3作『太閤記』(緒形拳)、昭和56年・第19作『おんな太閤記』(西田敏行)/ただし主人公は、ねね(佐久間良子)、平成8年・第35作『秀吉』(竹中直人)
徳川家康
生誕日:天文11年12月26日(1543年2月10日)
生誕地:三河国・岡崎城
所在地:愛知県岡崎市康生町561
産湯の井戸:岡崎城内に現存するほか、松平氏発祥の地・松平郷の松平東照宮(松平家の居館跡)には井戸の水を汲み、早馬を走らせて岡崎に届けたと伝えられる産湯の井戸も現存
幼名:竹千代
父母:松平広忠(岡崎城主)、於大(刈谷城主・水野忠政の娘)
没年月日:元和2年4月17日(1616年6月1日)
死没地:駿府城
所在地:静岡市葵区駿府城公園1-1
葬儀:増上寺
墓所:久能山東照宮・神廟、日光東照宮・奥社
神号:東照大権現
戒名:安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(増上寺)、東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士(日光山に祀られた後)
大河ドラマ:昭和58年・第21作『徳川家康』(滝田栄)、平成12年・第39作『葵 徳川三代』(津川雅彦)、令和5年・第62回『どうする家康』(松本潤)
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