江戸城 中之門跡(皇居東御苑)

江戸城の大手側(正面玄関側)の登城ルートをたどると、大手門を過ぎ、大手三の門を抜けると左手に百人番所、右手に中之門跡があります。中之門は、本丸の玄関となる中雀門と一体となって一つの大きな虎口(こぐち=曲折して出入りする狭い通路)を作り、百人番所や大番所とともに本丸護衛として重要な役割を果たしていました。

継ぎ目なく美しく積まれた江戸時代の石垣に注目!

大手三の門側からの中之門。門の内側には大番所が控えています

中之門石垣は江戸城の中でも最大級の巨石(35t前後)が使用され、目地(隙間・継ぎ目)がほとんどない、各段の高さを水平に揃えて積んだ整層積(ぬのづみ=布積み)の美しい石垣です。
構造上は少し弱くなりますが、大名の登城ルートにあるので、見た目の美しさを優先させたのです。

1638(寛永15)年、原形となる門と石垣が普請(ふしん=建設)。
1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)で、江戸城内の大部分の建物を失った翌年に熊本藩主・細川綱利(ほそかわつなとし)によって普請され、1703(元禄16)年、元禄大地震で倒壊した石垣を鳥取藩主・池田吉明が修復したもの。
中之門石垣には、本丸御殿への登城口として門の上には渡櫓(わたりやぐら)が配置されていました。
さらに左手には屏風多聞櫓(びょうぶたもんやぐら)、中雀門横には書院出櫓(重箱櫓)という防御重視の構えでした。

平成17年から平成19年まで20ヶ月かけて解体修復工事が行なわれ、往時の見事な石垣が復活しています。
三次元レーザ測量から築石一石ごとの立体モデルを作成し、コンピュータ画面上で、石垣創建当時の線形を推定するなどの修復工事の概要が、中之門跡のパネルに掲示されています。

中之門は、御弓持御持筒頭与力同心(おゆみもちおもちづつがしらよりきどうしん)が警備にあたり、大番所が書院番頭の詰所となっていました。
中之門を過ぎるとなだらかな坂道となり右に回って中雀門となりますが、本丸表書院の玄関口となる中雀門も現存していません。

明治時代初めの中之門
細川綱利と『忠臣蔵』
1658(万治元)年、明暦の大火で焼失した中之門などの修築を担当したのが熊本藩細川家4代・細川綱利。1702(元禄15)年の赤穂事件では、老中稲葉正通から、大石良雄はじめ赤穂浪士17人(四十七士は分散して蟄居)のお預かりを命じられいます。結局、細川綱利らの助命嘆願も幕府には聞き届けられず、熊本藩江戸下屋敷で切腹。熊本藩江戸下屋敷の切腹の跡地は高松中学枚の塀の一部を囲って旧細川邸の庭園として保存されています(港区高輪1-16-25)。

古地図&絵図に見る江戸城 中之門


江戸城 中之門跡(皇居東御苑)
名称 江戸城 中之門跡(皇居東御苑)/えどじょう なかのもんあと(こうきょひがしぎょえん)
所在地 東京都千代田区千代田1-1
関連HP 宮内庁公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ東西線・都営三田線大手町駅から徒歩6分。東京メトロ東西線竹橋駅から徒歩10分、JR東京駅丸の内北口から徒歩11分
駐車場 なし/大手センターパーキング(185台/有料)などを周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 宮内庁 TEL:03-3213-1111
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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