箱根山(戸山公園)

尾張藩徳川家の下屋敷時代の築山の名残というのが箱根山。山頂にある水準点の標高は44.6mで、人工の山ながら「東京23区の最高峰」で、山手線内の最高点。1671(寛文11)年、尾張藩2代藩主・徳川光友が造営を開始した下屋敷の大庭園に築かれた山です。

近世最大の大名庭園にあった巨大な築山が箱根山!

戸山公園に設置された箱根山周辺の園内図

御三家筆頭といわれた尾張徳川家の下屋敷だけに、「戸山山荘」と呼ばれた屋敷の総面積は13万6000坪(44.9ha)という広大さ。
庭園の8割は池だったという大庭園ですが、当然、近世の大名庭園では最大の規模です。

1671(寛文11)年に工事を始め、元禄年間(1688年~1703年)に完成しています。
広大な庭園、その東南に餘慶堂と称する「御殿」を配していました。
庭園内には小田原宿の景色を模した「町並み」も再現するというスケールの大きさです。

明治7年、陸軍戸山学校の用地となり、築山を箱根山と呼ぶようになったのだとか。
池泉回遊式の大庭園は、昔の面影をとどめるものがないほどに破却されていますが、明治天皇が戸山学校へ御臨幸の際に、箱根山に登り、「明治天皇御野立所」の標柱が立てられたことから、築山だけは破壊を免れたのだと推測できます。

この築山、当然、人力で築かれました。
下屋敷をこの地に築く時、田畑を屋敷に取り込まれて替地を余儀なくされた農民を救済するため、15歳以上の男女に土を運ばせて銭を与えたと記録されています。

「駒下駄で越すハ御庭の箱根山」

尾張大納言殿下屋敷戸山山荘全図

現在、箱根山と呼ばれる築山の正式名はお椀をふせたような形状から「丸ヶ獄」あるいは「玉圓峯」。宝永年間(1704年〜1710年)の絵図には「丸呂ヶ嶽」と記載されています。

箱根山と呼ばれるようになったのは、下屋敷の庭園内140mほどの距離に36軒の町屋が並んだ「御町屋」があり、この宿場風の家並みを小田原宿と呼んだから。

1808(文化5)年の「一日にみやこにのぼるいい御庭」、「駒下駄で越すハ御庭の箱根山」という川柳からも、東海道小田原宿に見立てた宿場と箱根山の関係がよくわかります。
さらに、この川柳から少なくとも江戸時代の後半には箱根山という名が定着していたこともわかります。

1793(寛政5)年、15代将軍・徳川家斉は戸山荘(尾張藩江戸下屋敷)を訪れ、「すべて天下の園池は当(まさ)にこの荘をもって第一とすべし」と語ったと伝わっています(旗本・佐野肥前守義行の随行記『戸山の春』)。

早稲田大学の学生会館建設中に池(御泉水)に水を注いだ龍門の滝の石組みが発見され、現在、名古屋・徳川公園に移築再現されています。

戸山公園サービスセンターで「箱根山登頂証明書」発行!

「箱根山登頂証明書」は、戸山公園サービスセンター(大久保地区)で発行。

江戸切絵図に見る 尾張藩下屋敷(戸山山荘)

箱根山(戸山公園)
名称 箱根山(戸山公園)/はこねやま(とやまこうえん)
所在地 東京都新宿区戸山1・2・3丁目、新宿区大久保3丁目
関連HP 東京都公園協会公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ東西線早稲田駅から徒歩10分
問い合わせ 戸山公園サービスセンター TEL:03-3200-1702
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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