豊島長崎の富士塚(富士浅間神社)

豊島長崎の富士塚(富士浅間神社)

東京都豊島区高松2丁目、長崎神社の境外末社、富士浅間神社の境内にあるのが豊島長崎の富士塚。文久2年(1862年)に築造された高さ8m、直径21mという大規模な富士塚で、国の重要文化財に指定。塚の表面には富士山から運ばれた溶岩で覆われ、富士講信者の結束、心意気を今に伝えています。

国の重要文化財に指定される5ヶ所の富士塚のひとつ

豊島長崎の富士塚(富士浅間神社)

富士講の一派、豊島郡長崎村の月三講(つきさんこう)の椎名町元講(しいなまちもとこう)の講中によって築かれたもので、頂上の大日如来坐像、小御岳石尊大権現碑(こみたけせきそんだいごんげんひ)、烏帽子岩奉献碑、太郎坊大権現碑、亀岩八大龍王神碑、月三講の講碑、同行碑、登山道の合目石、手水鉢など築造当時の石造物が数多く現存しています。

月三講は椎名町に住んでいた三平忠兵衛が祖となる「月三落合惣元講」が始まりで、下落合、現在の埼玉県川口市(青木氷川神社に現存する青木富士塚は月三講の築造)などにも周辺に講中を広げたため、ルーツの地を椎名町元講と呼んだのです。

山頂に大日如来が祀られるのは、明治の神仏分離以前、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ=神道の八百万の神々は、実は様々な仏の化身とする説)で浅間大神(あさまのおおかみ=木花咲耶姫命)の本地仏(ほんじぶつ)が大日如来とされたから。
富士山信仰において最重要視された仏が大日如来で、富士山の山頂にも大日如来を祀る大日堂が建っていました。
太郎坊大権現は富士山に住んだという伝説の大天狗、烏帽子岩は富士講の指導者・食行身禄(じきぎょうみろく)が入定した地。
その烏帽子岩の下、富士山7合5勾にある大露岩が亀岩で、八大龍王が祀られる聖地です。
小御岳石尊大権現は、現在の富士スバルライン5合目(精進口5合目)、小御岳山の山頂建つ冨士山小御嶽神社のこと。
まさに富士塚は、富士山をコピーしたミニ富士だということがわかります(富士山に登るのと同じ御利益があるとされていました)。

昭和62年に昭和の大修理が行なわれ、東日本大震災後にも平成の大修復が行なわれるなど、現在も浅間神社豊島長崎富士塚保存会によって保全管理が行なわれています(通常は登拝することはできません)。
通常は7月初旬の土・日曜にお山開きが行なわれ、その時だけ登拝が可能に。

国の重要文化財に指定される富士塚は、豊島長崎の富士塚(富士浅間神社)のほか、江古田の富士塚(東京都練馬区小竹町の茅原浅間神社境内)、下谷坂本の富士塚(台東区下谷2丁目の小野照崎神社境内)、木曽呂の富士塚(埼玉県川口市東内野)、志木の田子山富士塚(埼玉県志木市本町の敷島神社境内)の5ヶ所のみです。

豊島長崎の富士塚(富士浅間神社)
名称 豊島長崎の富士塚(富士浅間神社)/としまながさきのふじづか(ふじせんげんじんじゃ)
所在地 東京都豊島区高松2-9-3
関連HP 豊島区公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ千川駅から徒歩8分。東京メトロ要町駅から徒歩10分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 豊島区庶務課文化財グループ TEL:03-3981-1190
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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