東京都港区、レインボーブリッジの付け根の位置にある幕末に築かれた人工島が、品川台場(続日本100名城)の一部である第三台場。都立台場公園と整備、保存されていますが、海面から5m〜7mの石垣積みの土手で取り囲まれた凹地には往時の陣屋跡があり、礎石、弾薬庫跡などが残されています。
忍藩が守備した江戸湾防備の陣屋跡
嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊司令長官・ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航したのを受け、幕府は江川太郎左衛門に、品川台場の設計を命じています(品川沖に11基の台場を設計)。
早くも8月には品川第一、第二、第三台場起工しますが、安政元年(1854年)1月にはペリーは軍艦7隻を率いて再び神奈川沖に到来、3月、幕府は日米和親条約を結び、下田、箱館の2港の開港を約束します。
台場の建設工事は突貫で続けられ、直後の4月に品川第一、第二、第三台場が完成しています(5月に品川第四、第七台場、未完成のまま建設中止、12月に品川第五、第六台場竣工)。
この台場公園として保存される第三台場の守備を命じられたのは、忍城(おしじょう)を藩庁とする忍藩(現・埼玉県行田市)。
当時の忍藩主は、桑名藩から転封となった奥平松平家の松平忠国(まつだいらただくに)。
天保13年(1842年)には房総半島沿岸の警備を命ぜられ、富津陣屋・富津台場(現・千葉県富津市富津)、竹ヶ岡陣屋・竹ヶ岡台場(千葉県富津市竹岡)、大房岬台場(南房総市)、洲崎台場(館山市州の崎)、北条陣屋(館山市北条)、白子番所(南房総市白子)などを守備していました。
第三台場の完成で、品川台場の守備も受け持ち、もともと石高以上の家臣団の数で藩財政は圧迫されていましたが、この第三台場の警備、そして第三台場警備を始めた直後の安政2年(1855年)の安政の大地震、さらに安政6年(1859年)の安政の大洪水で、破綻寸前まで追い詰められ(76万両の大借金)、ついに俸禄を6分減としているのです。
幕末の戊辰戦争では、こうした海防などの苦労もあってか、譜代大名の奥平松平家ながら新政府側に付いて、幕府方の東北列藩同盟と戦っています。
品川台場は、続日本100名城に選定されていますが、第三台場はその中心的な存在です。
台場公園 第三台場・陣屋跡 | |
名称 | 台場公園 第三台場・陣屋跡/だいばこうえん だいさんだいば・じんやあと |
所在地 | 東京都港区台場1-10 |
関連HP | 東京シーサイド お台場エリア周辺の公園オフィシャルサイト |
電車・バスで | ゆりかもめ台場駅から徒歩15分 |
ドライブで | 首都高速台場ランプから800m |
駐車場 | お台場海浜公園北口駐車場(244台/有料) |
問い合わせ | お台場海浜公園管理事務所 TEL:03-5531-0852 |
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