東京都中央区京橋3丁目、京橋大根河岸おもてなしの庭、京橋大根河岸通り沿いにあるのが、江戸歌舞伎発祥の地碑。寛永元年(1624年)、猿若勘三郎(初代・中村勘三郎)が中橋南地(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座(猿若座)の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まりです。
江戸歌舞伎は京橋から始まる
昭和32年に建立された碑で、すぐ傍らには「京橋大根河岸青物市場跡」の碑も立っています。
初代の中村勘三郎は、肥前国平戸藩第9代藩主・松浦清(まつらきよし)が江戸時代後期に記した『甲子夜話』(かっしやわ)に「生国尾州愛知郡中村(現・名古屋市中村区)と記され、元和8年(1622年)江戸に下り、元和10年2月15日(1624年4月2日)、猿若勘三郎と名乗り、その年(3月から寛永元年)、中橋南地に芝居小屋「猿若座」を建て、3月から興行を開始しています。
この「猿若座」が江戸における常設歌舞伎劇場の始まり。
実際に「猿若座」があったのは、現在の中央区京橋1丁目、安政元年(1854年)創業の老舗金物屋「西勘本店」が建つあたりとされ、「江戸歌舞伎発祥の地」と染められた暖簾(のれん)が下がります。
中村座はその後、寛永9年(1632年)、江戸城に近いという理由で中橋から禰宜町(現・日本橋堀留町2丁目)へ移転、慶安4年(1651年)にはさらに堺町(現・日本橋人形町3丁目)に再移転しています。
『猿若舞』が江戸中の人気を集め、慶安4年(1651年)1月と3月には将軍家に招かれ、江戸城中で公演するなど人気を呈したのです。
猿若勘三郎(初代・中村勘三郎)は、万治元年(1658年)に死去していますが、代々が勘三郎を襲名、中村座座元として経営に携わり、中村座は江戸で一番の権威ある劇場となったのです。
天保12年(1841年)、中村座からの出火で、市村座ともに焼失、天保の改革によって浅草聖天町(現・台東区浅草6丁目)へ移転し、浅草に歌舞伎3座を含む5つの芝居小屋が集められ、猿若町という名が付けられたのです。
明治17年、浅草西鳥越町(現・台東区鳥越1丁目)に移転し、猿若座と名を改めましたが、明治26年1月の火災で焼失し、以後、再建されていません(平成中村座は仮設の公演)。
初代・中村勘三郎は、尾張・中村の出身ということから、名古屋市中村区にある中村公園・豊国神社に初代中村勘三郎生誕像が建立されています。
江戸歌舞伎発祥の地碑 | |
名称 | 江戸歌舞伎発祥の地碑/えどかぶきはっしょうのちひ |
所在地 | 東京都中央区京橋3-4 |
関連HP | 中央区観光情報公式サイト |
電車・バスで | 東京メトロ京橋駅から徒歩2分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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