東京都文京区湯島3丁目、湯島天満宮の南200mほどの場所にある坂道が、実盛坂。階段部分は20mほどですが、石段の急坂が東西に続き(西側に上るかたち)、足がすくむほどの急坂。一帯は平安時代に長井庄と呼ばれ、斎藤実盛(さいとうさねもり)の領有した地だったと伝えられています。
斎藤実盛ゆかりの地というのは後世の創作!?
『平家物語』(『平家物語』巻第七「実盛最期」)、『源平盛衰記』に、寿永2年6月1日(1183年6月22日)、木曾義仲との加賀国の篠原の戦(しのはらのたたかい=現・石川県加賀市で、殿(しんがり=最後尾)の守備を引き受け、討ち死にした様子が詳しく記されています。
かつて大蔵合戦で木曽義仲の父・源義賢が討たれた際。幼い義中を逃したのが斎藤実盛で、木曽義仲との戦(いくさ)では、「最後こそ若々しく戦いたい」と白髪を黒く染めて出陣しています。
松尾芭蕉も『奥の細道』途中に小松を訪れ、多太神社に奉納される斎藤実盛の甲冑を見て「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んでいるので、江戸時代には人形浄瑠璃、歌舞伎などで知られる逸話だったので、こうした実盛ゆかりの地という坂の名が生まれたのだと推測できます。
実盛塚、首洗いの井戸、産湯の井戸が坂下にあったのが坂の名の由来といわれてもいますが、生誕地は越前国(『平家物語』巻第七に斎藤実盛の言葉としてとして「実盛、もとは越前国の者にて候ひしが、近年御領に付けられて,武蔵国長居に居住仕り候ひき」と記載)、拠点とするのは武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)というのが定説で、しかも討ち取られたのは加賀国(石川県)なので、井戸や塚の話は後世の創作ということに。
寛政年間(1789年〜1801年)刊行の『江戸志』に、「湯島より 池の端の辺をすべて長井庄といへり。むかし、斎藤別当実盛の居住の地なり」と記されていますが、斎藤実盛の領有した武蔵国長井庄は、『女沼村聖天社縁起』(現在の妻沼聖天の縁起)によれば、斎藤実盛は、仁安年間(1166年〜1169年)、平清盛の命令で関東に下り長井荘を領したと記されているなど、記録に見る限りは現在の熊谷市が有力です。
実盛坂 | |
名称 | 実盛坂/さねもりざか |
所在地 | 東京都文京区湯島3丁目 |
電車・バスで | 東京メトロ湯島駅から徒歩5分 |
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