楠木正成像

楠木正成像

東京都千代田区皇居外苑、皇居外苑・皇居前広場の日比谷濠側に立つのが、楠木正成像。愛媛県の別子銅山200年記念事業として献納されたブロンズ製の騎馬像で、明治33年に設置されています。当時岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校の総力を結集して制作した逸品です。

隠岐から戻った後醍醐天皇を兵庫で出迎える姿を描く

楠木正成像

鎌倉幕府打倒を成し遂げた楠木正成が、正慶2年(1333年)に、隠岐の島から戻った後醍醐天皇を、兵庫の道筋で出迎えたときの勇姿を象ったもの。
東京美術学校では、岡倉天心校長が音頭を取り、仏師として名高かった彫刻家の高村光雲を主任にして取り組んでいますが、高村光雲によれば、「奉公至誠(ほうこうしせい)の志天を貫くばかりの意気でありましたから、この図を採った」とのこと。

高村光雲は頭部の制作を担当し、東京美術学校の山田鬼斎(やまだきさい=高村光雲の助手で、東京美術学校の彫刻教師)と石川光明(いしかわこうめい)が身体、甲冑(かっちゅう)部などを、後藤貞行(ごとうさだゆき=陸軍戸山学校の軍馬局、駒場農学校を経て東京美術学校勤務)が馬の製作を担当しています。
甲冑の時代考証は川崎千虎(かわさきちとら=時代考証に優れた日本画家で、当時東京美術学校に勤務)が担い、馬を担当した後藤貞行も、かつて勤務していた軍馬局から馬の屍体をもらい受けて解剖したり、東北を巡って馬の写真を撮影し、何度も模型を作成して細部を煮詰めています。

木彫の原型が完成するまでになんと3年を費やしたという力作で、立案の明治22年から完成までに10年を費やしたため、発起人である住友家13代当主・住友友忠(すみともともちか)は、完成を見ずして明治23年に没しています。
そのため台座の銘文には、15代当主・住友友純(すみともともいと=住友家養嗣子、徳大寺実則・西園寺公望の実弟、明治28年に住友銀行を開業)の名で「亡兄友忠、深く国恩を感じ、別子銅を用いて楠木正成像を鋳造し、天皇陛下の御前に献納したい」と記されている。

上野恩賜公園の西郷隆盛像(明治31年除幕/高村光雲作)、靖國神社外苑の大村益次郎像(明治26年除幕/大熊氏廣作=日本最初の西洋式銅像)とともに東京三大銅像にも数えられています。

楠木正成像

建武中興の忠臣として知られる楠木正成とは!?

楠木正成像
前時下の昭和19年発行の五銭紙幣には皇居前広場の楠木正成像が!

楠木正成が再注目されるようになったのは江戸時代から。
江戸時代には『太平記』に描かれた「建武中興」の理想を支えた忠君たる正成像が流布し、元禄2年(1689年)には、終焉の地である湊川に墓碑が建立されています。
『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった徳川光圀が記した碑文には、「嗚呼忠臣楠子之墓 」(ああちゅうしんなんしのはか)と刻まれています(徳川光圀は熱海以西には旅したことがなく、墓碑建立には立ち会っていません)。

こうした天皇への忠臣の姿勢は、幕末に倒幕派の長州藩がいちはやく『楠公祭』を営むなど、尊王攘夷派は、政治的討幕キャンペーンに忠君・楠木正成を巧みに取り入れています。

明治維新後も天皇による親政を強調する目的から、南北朝時代の南朝の顕彰はより精力的に国家規模で行なわれ、忠君としての楠木正成も幅広く流布されたのです。
明治の富国強兵、忠臣愛国の風潮を背景に、明治5年、楠木正成を祭神とする湊川神社が明治天皇の御沙汰により別格官弊社第一号として創建。

明治天皇も「小竜景光」(こりゅうかげみつ)という楠木正成の愛刀と伝わる名刀を山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)から献上され、佩刀(はいとう=サーベル)にしていました(現在は国宝として東京国立博物館蔵)。

軍国主義化が進んだ昭和15年、日中戦争のさなか、国家総動員法による総力戦体制時には、阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)、尾上菊太郎( おのえきくたろう )、月形龍之介(つきがたりゅうのすけ)といった当時の大スターを揃え、楠木正成を描いた映画『大楠公』(だいなんこう)が公開されています(映画会社は当時、「映画報国」という方針を打ち出し、公開の前年に成立した「映画法」による検閲を経て上映されています)。

国定教科書になってからの記述を見ても、当初は「湊川(みなとがわ)の戦いで討ち死にしました」と簡潔な表現だったのが、明治44年の改訂で「七たび人間に生まれて朝敵(ちょうてき)を滅ぼさん」との記述が加わり、さらに昭和9年には「わが国民は、皆、正成のような真心を持って、大いに御国(おくに)のためにつくさねばならぬ」と加筆されています(『太平記』ではその最期に怨念の意が込められていますが、国定教科書では死を潔く受け入れる美談になっています)。

人間魚雷「回天」に描かれた菊水の紋は楠木正成の用いた紋様で、天皇を支え、圧倒的に不利ながらも湊川の戦いに臨んで散った楠木正成は、特攻や玉砕の手本にもされたのです。

戦後は、軍国主義からの脱却というGHQの方針もあり、「悪(あ)しき戦前の象徴」となった時期もありました。
近年の研究では、楠木正成は幕府の御家人としての側面、後醍醐天皇に仕えた廷臣としての活躍、それを支えた物流の支配者という多面的な角度からの研究、顕彰が進んでいます。

楠木正成像
名称 楠木正成像/くすのきまさしげぞう
所在地 東京都千代田区皇居外苑1-1
関連HP 千代田区観光協会公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄二重橋前駅から徒歩8分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
日比谷濠

日比谷濠

東京都千代田区皇居外苑、江戸城を囲む濠(内堀)の一部が、日比谷濠(ひびやぼり)。祝田橋〜馬場先門の間の濠で、東南の角部分にあたります。濠の内側が有名な楠木正成像のある皇居外苑、南側が日比谷公園、東側に東京會舘、帝国劇場が並んでいます。かつて

江戸城 伏見櫓

江戸城西の丸の西南隅に建てられた二重櫓で、両横には大規模な多聞(たもん=防御を兼ねた収蔵庫)も続いています。1628(寛永5)年、3代将軍家光の時代の江戸城修築に際して、京・伏見城から移築したものと伝えられています(記録がなく伝承です)。石

東京三大銅像とは!?

東京三大銅像とは!?

銅像の宝庫でもある東京ですが、明治26年、日本最初の西洋式銅像として靖国神社外苑に設置された大村益次郎像(大熊氏廣制作)、明治31年、上野恩賜公園設置の西郷隆盛像(高村光雲制作)、明治33年、皇居前広場に設置の楠木正成像(高村光雲など東京美

皇居外苑

皇居外苑

東京都千代田区皇居外苑、昭和24年、旧皇室苑地が国民公園として開放されたもので、「皇居前広場」という呼び方で多くの人に親しまれているのが、皇居外苑。115haにも及ぶエリアには、江戸時代、老中や若年寄といった幕府中枢を担う大名の武家屋敷が建

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

よく読まれている記事

こちらもどうぞ