東京都中央区明石町、居留地中央通りと聖ルカ通りの交差点、聖路加国際病院南西側に立つのが、慶應義塾発祥の地記念碑。幕末に、この地(築地鉄砲洲)に福沢諭吉出身の中津藩中屋敷があり、中屋敷内の蘭学塾の教師に就任したことが、慶應義塾のルーツということで、記念碑が立てられています。
慶應義塾のルーツは、築地鉄砲洲にあり!
実際に、中津藩の中屋敷があったのは現在の聖路加国際病院の建つ場所で、安政5年(1858年)、福沢諭吉は藩邸内の蘭学塾の教師に就任、藩内外の希望者に蘭学を教えています。
慶應4年(1868年)、蘭学塾を芝・新銭座(現・港区浜松町あたり)に移し、イギリスのパブリックスクールに範をとって近代的学塾として、時の元号にちなんで、「慶應義塾」と命名したのです。
明治3年、福沢諭吉は、発疹チフスに罹り、芝・新銭座の地が「何か臭いように鼻に感じる。また事実湿地でもあるから、どこかに引き移りたい」(『福翁自伝』)ということで、塾舎が手狭になったこともあって「高燥の地で海浜の眺望もよし」という三田に校舎を移転、明治4年3月23日(1871年4月23日)、今に続く「三田の慶応義塾」の歴史が始まったのです。
慶應義塾発祥の地記念碑は、昭和33年4月23日(4月23日=三田に移転した日を西暦に換算し、慶應義塾の開校記念日としています)、慶應義塾創立100周年を記念して、聖路加国際病院敷地内に建立されましたが、昭和32年、中央区の道路整備に伴って、現在地に移されています。
記念碑の設計は谷口吉郎、台座は黒御影石で、正面と側面に建碑の由来が記され、スウェーデン産花崗岩(褐色)の書籍型オブジェに、『学問のすゝめ』初編初版本の活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が刻まれています。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という名フレーズは、福沢諭吉の助言で、故郷の中津に明治4年11月、中津市学校が開校した際、中津の青少年に学問の重要性を説くために記された指針を翌年に出版した際、序文として掲載されたものです(中津市学校の校門だった生田門が大分県中津市に現存)。
築地鉄砲洲の中津藩中屋敷は、藩医であった前野良沢が『解体新書』を翻訳した地でもあり、隣接して「蘭学の泉はここに」の碑も立っているほか、近くには立教学院発祥の地碑(立教大学のルーツ)もあります。
慶應義塾発祥の地記念碑 | |
名称 | 慶應義塾発祥の地記念碑/けいおうぎじゅくはっしょうのちきねんひ |
所在地 | 東京都中央区明石町11-11 |
電車・バスで | 東京メトロ築地駅から徒歩5分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
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