寿永2年5月11日(1183年6月2日)、木曽義仲(源義仲)率いる源氏が平維盛の平家と激突した砺波山合戦(となみやまがっせん)の古戦場が、倶利伽羅峠古戦場(くりからとうげこせんじょう=倶利伽羅県定公園)。牛500頭の角に松明を付け、源平合戦の中で、平家軍に放つという奇襲で京からの行軍で疲れた平家を破ったのがこの戦い。
源平が激突の加越国境の古戦場
これが『源平盛衰記』に記された木曽義仲の「火牛の計」(かぎゅうのけい)。
もともとは、中国で春秋戦国時代、斉の将軍・田単(でんたん)が、1000頭の牛の角に刀を剣を巻きつけ、尻尾に結びつけた芦に火をつけて牛を暴走させ敵陣に放った戦術。
燕によって滅亡寸前に追い詰められた斉を優れた知略によって救ったとされています。
越中(富山県小矢部市)と加賀(石川県河北郡津幡町)の国境に位置する倶利伽羅峠は、江戸時代には加賀藩の参勤交代にも使われた北陸道の要衝で、倶利伽羅ふるさと歩道として整備されています。
国土交通省の「歴史国道」、さらには文化庁の「歴史の道百選」にも選定されています。
峠の名は、山頂の石川県側に倶利伽羅不動尊(倶利迦羅不動寺)があることに由来。
倶利迦羅不動寺は養老2年(718年)建立の古刹。
倶利伽羅峠山頂の猿ヶ馬場近くには源平供養塔、「火牛の計」モニュメントなどが配されています。
猿ヶ馬場は、平家軍の総大将、平維盛が本陣を敷いた場所です。
中黒坂(なかくろさか)が木曽義仲軍が本陣を敷いたところ。
源平合戦の旧跡に残る峠越えの道は、歴史国道「北陸道」として整備
実際に木曽義仲が「火牛の計」を使ったかに関しては、懐疑的に見る歴史学者も多いのですが、津幡町の上河合区に、「火牛の計」にまつわる郷土芸能「牛舞坊(うっしゃいぼう)」が伝承されています。
「火牛の計」で徴収された牛の冥福を祈るために、農民たちが藁(わら)で形作った「牛」を引きながら舞ったのが、始まりとか。
合戦を前にして、木曽義仲が戦勝祈願した埴生護国八幡宮(小矢部市埴生)は、倶利伽羅合戦以降、「勝ち運の神」として、戦国時代には越中国(現・富山県)を支配した佐々成政(さっさなりまさ)が、藩政時代には加賀藩前田家の尊崇を受けています。
木曽義仲のファンだったという芭蕉も当然、元禄2年7月15日(1689年8月29日)、『奥の細道』途中にこの倶利伽羅峠を越えています。
「快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻金沢ニ着。」
ただし曽良の日記には埴生護国八幡宮に参拝したとの記述はありますが、なぜか倶利伽羅峠に関してはさらりと触れられるだけです。
倶利伽羅峠に「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」の芭蕉句碑が立ちますが、この句は義仲寺(現・大津市)の義仲の墓前で詠んだもの。
明治11年、明治天皇の北陸巡幸にあわせて勾配の緩やかな天田峠(あまだとうげ)に新道が開削され、明治13年にはこの新道が国道(現在県道)に。
そのため、倶利伽羅峠超えの道は今も往時の街道風情が色濃く残されています。
津幡町竹橋から小矢部市桜町までの延長約12.8kmが、歴史国道「北陸道」として整備され、ハイキングコースとなっています。
(歴史国道「北陸道」富山県側の行程=倶利伽羅源平の里・埴生口→埴生護国八幡宮→砺波の関→巴塚・葵塚→中たるみの茶屋跡→天池茶屋跡→矢立→塔の橋→砂坂→源氏ヶ峰→猿ヶ馬場(地獄谷)→芭蕉塚→倶利伽羅小道→源平供養塔→平為盛塚→(県境)→倶利伽羅公園→倶利伽羅権現石殿→倶利迦羅不動寺)
4月下旬〜5月初旬にかけて「昭和の花咲かじいさん」と呼ばれた高岡市の高木勝己氏が20年かけて植栽した桜など6000本の八重桜が咲き、『八重桜まつり』も開催されています。
猿ヶ馬場、倶利伽羅公園などが花の見所です。
倶利伽羅峠古戦場(倶利伽羅県定公園) | |
名称 | 倶利伽羅峠古戦場(倶利伽羅県定公園)/くりからとうげこせんじょう(くりからけんていこうえん) Kurikara-toge ancient battlefield |
所在地 | 富山県小矢部市埴生 |
関連HP | 小矢部市観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | あいの風とやま鉄道石動駅からタクシーで20分 |
ドライブで | 北陸自動車道小矢部ICから約6.7km |
駐車場 | 10台/無料 |
問い合わせ | 小矢部市観光協会 TEL:0766-30-2266 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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