「うなぎの蒲焼」発祥の地は、浦和?

「うなぎの蒲焼」発祥の地は、諸説あり、定かでありません。江戸時代初期には宇治川産のうなぎを蒲焼きにしていたことが明らかですが、関東でも武蔵国の浦和(現・埼玉県さいたま市)で、うなぎの蒲焼きが発祥したという説があります。当時、浦和周辺は見沼などの沼地が広がり、うなぎを数多く産していました。

浦和には綾瀬川が流れ、見沼など湿地帯が広がっていた!

蒲焼きの語源も、鰻を、ぶつ切りにし、竹串に刺して焼いたものが蒲(がま)の穂に似ていることが由来という「蒲焼(がまや)き説」、焼き上がった際の色や形が「樺(かんば、かば)の木」に似ているからとする「樺焼き説」、いい香りが早く鼻に入るという意味の「香疾(かばや)」が転じたとする「香疾説」という説もあります。

実は、この蒲焼き、日本独特の料理法で、12世紀に中国で記された『大観本草』には似たような料理法が載っていますが、今では用いられなくなっています。

天和2年(1682年)〜貞享3年(1686年)に出版の山城国(現・京都府南部)の地誌『雍州府志』(ようしゅうふし)にすでに「宇治川産の鰻を宇治丸と云って之を焼いたものは樺焼(かばやき)と謂(い)い」と記されているので、江戸時代初期には「うなぎの蒲焼」があったことがわかります。

さらに17世紀後半の浮世草子『好色産毛』(こうしょくうぶげ)に「うなぎさきうり同かばやき」と記された京の路上を描いた挿絵があるので、江戸時代初期に山城国では、すでに「うなぎの蒲焼」が普及していたことがわかります。

宝永年間(1704年〜1711年)、中山道・浦和宿で旅人に「うなぎの蒲焼」を供していたというので、浦和も京に負けない歴史があることに。
中山道経由で、京から伝わった可能性もありますが、逆に浦和で生まれた蒲焼きが京にということもあるのかもしれません。

しかし、現在の醤油を使った蒲焼は、天保年間(1781年~1789年)に、千葉県銚子で濃口醤油が開発されて以降のもの。
江戸前のうなぎを使った「うなぎの蒲焼」は、江戸名物の筆頭だったのです。

銚子で生まれた濃口醤油をいち早く取り入れただろう、浦和宿名物の蒲焼き(ただし江戸時代後期の『浦和宿明細帳』には浦和宿には「名物名産なし」と記載されています)。
昭和30年代には浦和には50軒ほどのうなぎ料理の店があったのですが、今では半分ほどに激減。
うなぎ料理店などが集まった「浦和のうなぎを育てる会」が発足、PR活動の一環として、「かば焼き発祥は浦和」と宣言しているのです。

「うなぎの蒲焼」発祥の地は、浦和?
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